仕草見本市

(その三十三)合図

次の日午後早く、列車をおりたときは、サン・ディエゴの町は、陽気にゴッタがえしていた――国境向うの、競馬シーズン最初の土曜日に引きよせられた連中で、いっぱいだった。ロス・アンジェルスの映画屋、インペリアル・ヴァレリーの百姓、太平洋艦隊の水兵、…

(その三十二)録音

入所当初は何がタブーかもわからなかったから、僕は無茶なことをして皆を驚かせた。そんなジェイルの手紙のやりとりでこんなエピソードがある。 当初僕は英語の授業を率先して受けていて、その際に先生が僕1人で宿題ができるようにと、ポータブル・カセット…

(その三十一) ヘンリー・ダーガー

山手線の車内。水玉模様のミニスカートをはいた女の子。父親と祖母といっしょに行楽にでかけた女の子は、朝方降っていた雨が止んだことをとても喜んだが、折りたたみの傘が邪魔になった。同じ水玉模様で揃えられた傘は、しばらく女の子の手のひらでもてあそ…

(その三十) 慣れ

「そんなことだろうと思ってたよ」と期待してた表情も見せず、にんじんはそっけなく答える。 にんじんはそれに慣れている。ある事柄に慣れると、それがついにはちっとも可笑しくはなくなるのだ。ジュール・ルナール「にんじん」 佃裕文訳(『ジュール・ルナ…

(その二十九) バス移動

新宿駅西口を午前九時に出発したバスは、関越道を降りてからずっと、同じような景色の続く国道をひた走っている。僕はバスの中を見回した。三十人ほどの若者が、それぞれ窓際の席に陣取り、眠ったり、ヘッドフォンステレオを聴いたりしている。友達同士で参…

(その二十八) 出会い

「ちょっと裸になれ」と、力道山が言った。それが彼の最初の言葉だった。 アントニオ猪木『男の帝王学』ワニブックス 一九九〇年六月一日 103頁 十三歳でブラジルに渡った頃の猪木寛至は、すでに身長が一八五センチを越え、学校の体育教師を投げ飛ばすほどの…

(その二十七)清潔

藤田嗣治は、シャイム・スーティンに歯ブラシを与え、その使いかたを教えた。それがなんのためになるのかをスーティンが理解しようと思ったのは、藤田のとなりで喉もとにこみ上げる嗚咽をがらがらうがいで流し去ったときではなく、つるつるの歯で行きつけの…

(その二十六) 追放

ある午後、朝から折り悪しく振り(ママ)つづいていた雨のなかを、半白の髪をした長身の男がたずねてきた。着ずれたカーキ色の服からして、その男の日常は楽でないことを示したが、フジタは別として、それが当時の日本人の標準的な服装だったことは確かであ…

(その二十五) 分身

「首尾はよくなかったよ!」と、バティストはアナゴを指して言った。 彼は、釣り人が波止場にじっと立っている野次馬にでも話しかけるような口振りで、ロンドンから来た男に話しかける。 つぎは、ロンドンから来た男がバティストに話しかける番か? 男が長い…

(その二十四) 涼む

蒸し暑い晩だということはもう話したね。そんな日がずっとつづいとって雨も降らず風も吹かずという晩だったから、花月辺に住んどる者は夜中の十二時になってもまだうろうろ歩き廻ったりしとったとだから。竹風なら高台になっとるから幾分でもしのぎやすいが…

(その二十三) テイクノート

三年前、僕の書いたものが初めて単行本になった。「作家」「先生」と呼ばれるのにあんなに憧れていたのに、書き連ねたものをまとめただけだから感慨はない。 郵送してくれればいいと言う僕に、若い編集者のMさんは「出来上がった本を著者の方にお届けするの…

(その二十二) 孤独

一晩じゅうぼくはひとりでいた、そしてもう一晩そうして過ごさねばならないのかと思うとぼくの勇気はくじけた。ときどき、暗闇のなかで、ぼくはあらぬことを口走った。枕をしっかりと抱きしめて何か言った。そのとき考えたことは、もう何度も考えてしまった…

(その二十一) 退屈

きのう、ぼくたちのうしろで一人の男が退屈のあまり座席から落ちた。 フランツ・カフカ『カフカ全集7 日記(一九一二年五月二三日の記述)』谷口茂訳 新潮社 一九八一年一〇月ニ〇日発行 201頁

(その二十) 視線

部長がぼくと事務のことで相談する場合(今日はカードの整理箱についての相談だった)、ぼくは、自分の視線か彼の視線かのどちらかを押しのける軽い皮肉が、いやいやながらでも自分の目のなかへ入ってこないと、部長の目をあまり長く見ていられない。彼の視…

(その十九) 昂進

ぼくはいつもより神経質になり、そして意気地がなくなり、数年前自慢していた落ち着きの大部分を失ってしまった。今日バウムから、どうしても東ユダヤ人の夕べの集いの司会役をやることができないと書いた葉書をもらい、それでは自分が一件を引き受けねばな…

(その十八) 感動

ヴェルフェル(カフカより七歳年少の早熟詩人。当時まだプラーク大学の学生だった)の詩のせいで、ぼくの頭は、きのうの午前中ずっとまるで蒸気でいっぱいになったような具合だった。一瞬ぼくは、感動がぼくをさらってまっすぐ無意味の底まで連れて行きはし…

(その十七) 割礼

今日の午前、ぼくの甥の割礼があった。がに股の小男のアウステルリッツは、もう二千八百回も割礼を行っており、処置が非常に上手だった。それは一種の手術だったが、幼児が手術台の上ではなくて祖父の膝の上に乗せられること、さらに手術者はよく気をつける…

(その十六) 握手

ゆうべ、ぼくはマリーエン小路のぼくの義姉妹に、同時に両手で握手した。まるでそれが二つとも右手で、そしてぼくが二重人格であるかのように器用に。 フランツ・カフカ『カフカ全集7 日記(一九一一年一〇月十九日の記述)』谷口茂訳 新潮社 一九八一年一…

(その十五) いつもよりましな自意識

いつもよりましな自意識。心臓の鼓動は、ぼくのさまざまな望みをいつもよりよく叶えてくれそうな打ち方だ。ぼくの頭上のガス燈のシュウシュウ鳴る音。 フランツ・カフカ『カフカ全集7 日記(一九一二年ニ月二六日の記述)』谷口茂訳 新潮社 一九八一年一〇…

(その十四) 共有

電車に乗り座席について、ふと見上げると、眉毛を抜いている男がいた。長髪で、ヴィトンの手提げかばんを太ももの脇に置き、一心に鏡を見つめていた。電車のゆれで立てかけたかばんが倒れると、ふさがった手を伸ばすに伸ばせず膝を硬くすり合わせた。鏡の自…

(その十三)  いたわり

商店街でみかけた親子。母親は、右の足を怪我していて、包帯を巻いた片方だけがサンダル履きだった。彼女は疲弊しており、背中を丸め、ふたつの松葉杖をよろよろつきながら、あごを突き出し息をついた。その左側にいる十二、三歳の息子は、いたわるようにぴ…

(その十二) おどけた調子

昨日の朝、商店街でみかけた男。彼は初老で、仕立てのいいツイードのジャケットを着こなし、襟首はきれいに刈りそろえられていた。趣味のよさは人目でわかった。彼は職務質問を受けている真っ最中で、巡回中の自転車の荷台には薄いフェルト生地の工具入れが…

(その十一) 吐息

その男は、まだ二十をいくらか越えたばかりだというのに、前髪が後退しつつある事実を、セットしたことなどまるでない毛先の乱れによってことさらに誇張していた。鼻先が高く、穏やかな二重まぶたの下に宿した栗色の瞳は、ものごとをあるがままに受け入れる…

(その十) 胸の高鳴り

彼がことを台なしにしてしまうのではないか心配だった。もしそんなことにでもなったら、一大事だ。それから窓をしめてカーテンを引いたほうがよかろうと思いついた。たてつづけに煙草をふかした。時計はまだ十一時十五分。あることを考えつくと、彼の胸は早…

(その九) 見栄とつつましさ

マクヒィス おい、可愛らしい下着じゃねえか。 淫売 揺り籠から棺おけまで、まず下着だあね。 年とった淫売 あたいは絹はいっさい使わないことにしてんの。お客がじきに病気だと思いやがるからね。 ベルトルト・ブレヒト『三文オペラ』千田是也訳 岩波書店88頁

(その八)眼

自分の車をローリンソンの家の隣に停め、こわれた踏み段につまずきながら、不安な気持でヴェランダに上がった。 ミセズ・シェパードがドアをあけ、唇に指をあてた。目が非常に不安そうであった。 「一分ほど、お話をしたいのだが?」 「今はだめです。忙しい…

(その七) 微笑

彼女は煙草の煙を吐いて、その煙の中で微笑した。美しい歯だった。 「けさ、私が来るとは思わなかったでしょうね。頭はどう?」 「まだ、はっきりしない。全然予期してなかった」 「警察でしぼられた?」 「例のとおりさ」 「私、お邪魔じゃないの?」 「い…

(その六) 手

彼が言うと、男は顔を両手でおさえ、泣きはじめたのだった。男の小さな華奢な肩がふるえていた。ふっと、思った。いや、手が思うよりも先にのびていた。男は、顔をあげた。驚き、おそれた。おびえた。涙をためた眼が、大きくひらいた。救けて下され、見逃し…

(その五) 言いよどみ

「至急お伝えしなければならないことができたんです」 「どうしてそこで言葉を切る?」 「えっ……ああ、はい……」 「声が震えているぞ、ラリイ」(マヌエル・プイグ『このページを読む者に永遠の呪いあれ』木村栄一訳 現代企画室255頁)

(その四) 落下

ベイヤードは、何度か深々とすばやく吸い込んでタバコをのみ終えると、ナーシッサの手首を握ったまま、死んだ弟のことを、なんの前置きもなしに、乱暴に語り始めた。それはむごたらしい話だった。始めもなく、馬鹿馬鹿しく不必要なまでにすさまじく、ときに…