(その十) 胸の高鳴り

彼がことを台なしにしてしまうのではないか心配だった。もしそんなことにでもなったら、一大事だ。それから窓をしめてカーテンを引いたほうがよかろうと思いついた。たてつづけに煙草をふかした。時計はまだ十一時十五分。あることを考えつくと、彼の胸は早鐘のように鳴り出した。好奇心から脈を計ってみたが、驚いたことに、まったく正常だった。暖かい晩で、部屋の中はむし暑かったが、手足は冷え切っていた。ちっとも見たいとは思わない光景を想像してみるなんて、まったく不愉快じゃないか、と彼はいらいらしながら思った。
       サマセット・モーム『秘密諜報部員』龍口直太郎訳 創元社117〜118頁