(その二十八) 出会い

「ちょっと裸になれ」と、力道山が言った。それが彼の最初の言葉だった。
       アントニオ猪木『男の帝王学ワニブックス 一九九〇年六月一日 103頁


 十三歳でブラジルに渡った頃の猪木寛至は、すでに身長が一八五センチを越え、学校の体育教師を投げ飛ばすほどの腕力を持っていた。本人の言によれば、兄弟で観たニュースフィルムの影響で家族を説き伏せ(「アマゾンを開拓して町を作ろう!」)、神奈川県の移民募集に応募して入植を果たす。四十日に渡る船旅のあとに猪木を待ち構えていたのは、入植者たちがひとしく従事することになる過酷な労働だった。ファゼンダ・スイッサのコーヒー園で、枝ごと豆を引きちぎるように抜く動作をくり返しているうちに、あっという間に軍手は破け、手の皮は擦り剥けて血が噴き出してくる。太陽に照らされた砂の多い大地は焼けつくようで、足の裏の皮は焦げついたように黒く変色して、数日経つと剥けてくる。そのうちに手足の皮は厚くなり、火のついたマッチ棒を乗せても平気な段階にいたる。一年半の労働のあと、ファゼンダ・エスペランサで今度は落花生と綿を摘む。伝説のひとつによると、一日の労働を終えて、着ていたシャツを脱ぐと、すっかり汗を吸いこみ、蒸発した塩を大量に含んだ衣服は、固くこわばり床に置くと立ったという。サンパウロに移住した後も、青果市場での労働が待っている。驚くことに、猪木兄弟は肉体労働を終えたあとに、陸上競技の練習をした。兄にもらった砲丸の玉で見よう見まねのフォームで練習を重ね、競技会で優勝するまでになった。猪木は日本からの入植者でただひとり、取れたての野菜を積んだ百キロもある「縦と横は七〇センチ、長さ一五〇センチの箱」を持ち上げることができた。ブラジルにも彼ほど大きい人間はそういなかった。与太者どもに喧嘩を吹っかけられることもしばしばあったが、たいていは返り討ちにした。彼らはよく大人の腕ほどもある山刀を腰にぶら下げていたため、勝負をする前に武器を使わないことを約束しあわなければならなかった。
猪木が力道山に会ったのは、一九六〇年四月一一日、彼が十七歳のときであった。力道山がプロレスに転身したきっかけになったのがナイトクラブでの喧嘩だったように、一瞬の邂逅が闘士を引き合わせた。引用した箇所は、もはや伝説となった、力道山の放った一言である。