(その二十四) 涼む

  蒸し暑い晩だということはもう話したね。そんな日がずっとつづいとって雨も降らず風も吹かずという晩だったから、花月辺に住んどる者は夜中の十二時になってもまだうろうろ歩き廻ったりしとったとだから。竹風なら高台になっとるから幾分でもしのぎやすいが、花月の、それもあたしが住んどった納屋は窪地の所に建っとったもんで、空気も流れて行かんとよ。そいでもあたしはうとうとしとった。ちょうど末の子を生んで体がくたっとしとったから、いくら眠れんというても寝とかないわけにはいかない案配でね。そうしてうとうとしとった時、火事だあという声がきこえてきた。はじめはああまた誰かほら吹いとるなあと思うとった。あんまり暑くて眠れんので、騒動起してちっとでも風吹かそうとしとるんだ位にね。それでもうちの亭主はぱっと飛び起きて様子を見に行ってくるといってでかけよった。しかもそれっきり戻ってこん。そのうち、事務所が燃えよるぞという声があちこちからきこえて、みんながばたばた駆けだすもんで、ああこりゃほらじゃない、ほんとの火事だと思うたんですよ。
                     井上光晴『階級』119〜120頁

この場面は、主人公の有家直道が、父の有家重行が経営する波並炭鉱の事務所から出火した三年前の顛末を、目撃者のひとりから聞きだすくだりである。直道は、自らの正体を隠して金銭を払い、女の話を聞く。直道は、出火当時父が行方不明になったこと、焼け跡から父の焼死体が発見されたことのふたつの事実から出発して、父の死亡原因を究明しようとする。当時の現場の証言者たちは、直道の父が、「何か重要なもの」を取りに火のついた事務所に飛び込んだと証言したが、会話の女は、その事実を否定する(「火の中に飛び込む馬鹿はおらんでしょ」)。では、有家の父は、出火前から事務所内にいたことになる。だが、女はその推測も鼻で笑う(「それで火がでてもぼやっとそこに坐っとって焼け死んだとね」)。それでは残る可能性はひとつしかない。女はこともなげにいう。「火が出る前、誰かが投げ込んだにきまっとるよ」。引用箇所は、以上の事実確認が終わったあとの女の証言である。
この一連の述懐でみられる描写で優れているところは、語り手が周囲に起こった出来事の質を感知するために行う自然な観察を的確に捉えている点だ。ここでは直接には書かれていないが、語り手の女はおそらく布団も敷かずにぼんやりと畳の上で娘たちと寝そべっているはずで、そのことは、直後に続く「あたしは上の娘に、赤ん坊をしっかりみとけといいつけて、繰込場の方に走っていきました」という箇所からも想像できる。語り手が動かぬまま、出来事の様相をうかがう。こうした状態は、「眼を凝らす」とも違うし、「聞き耳を立てる」とも微妙に違う。なぜなら、起こった出来事ははじめのうちは単なる法螺話だと思われていたのであり、出来事はがせネタによって引き起こされた騒動であり、真実ではないと判断しているからだ。しかし、そのがせネタは日常的ながせネタであり、語り手のもっぱらの関心は自宅にいて疲労に包まれた自分の身体にある。彼女の疲労による倦怠は、夫の行動によって破られるのだが、この転調はうまくいかずに鎮火された火災現場で見つかった黒焦げの死体の検死場面まで、うっすらと影を引いている。疲労は重苦しく、あくまで出来事の突発的状況に払拭されることがない。こうして述懐は、劇的な調子をやや弱めることによって臨場感を獲得する。
井上光晴は、転調や予感を描くのに優れた技量を示す作家ではない。とりわけ『階級』という作品において、有家内部の知られざる不和の原因――母の姦通、父の死の真相――がしだいに明るみに出るときの、有家直道のいささかナイーブな反応の描写にもそれはみてとることができる。だが、ここで引用した反応の記述は文句なしにうまい。とりわけ、「騒動起して風吹かそうとしとるんだ位にね」の一文は、女の発言としてリアリティーがあるかどうかは別にして、精確な一文だと思う。彼が得意とする記述の精度は描写にかんするもので、構成に関するものではない。同じ出来事を違った視点で語りなおすという、当時気のきいた小説家なら誰でも一度は試みたフォークナー由来の多元的視点という方法の導入は、肝心の視点の限定が不十分にしかなされていないために失敗しているようにみえる。ある出来事は複数の人物から語られるが、単なるくり返しに堕してしまっている。その原因は、いくつか考えられるが、ふたつだけ挙げるとしたら、第一に噂というものに個人的属性という性格を与えたことと、第二に人間がある認識に到達するいくつかの段階(記録、筋道、論証)を精密に分類しながら、いったん到達したそれぞれの認識同士は、絶対に折り合わないと彼が確信していたことによる。
井上光晴はすばらしい観察者ではあったが、語り部ではなかった。この結論は、従来言われてきたような――とりわけ原一男の『全身小説家』(一九九四)で広く知られるようになった、「嘘つきみっちゃん」の異名をとる幼年時代や、大西巨人の『三位一体の神話』でモデルにされたような嘘に嘘を重ねる虚言癖――彼のイメージからはかけ離れているかもしれない。だが、しばらくはこのまま論を進めることにしよう。
まず、先に挙げたふたつの原因について考えてみよう。ここで事件当時の調書を調べに警察署に直道が尋ねていったときの、警官の会話を引用する。

「炭鉱のもんは誰でも、人からきいたことを自分がみたように話すからね」巡査部長は同年輩の警官にむしろ追従するように相槌を打った。
「そうそう」警官はいった。「どこもかしこもつぶれてから、それが特にひどうなったな。みんな、自分で推理小説みたいな話を作りたがるんだ。自分がやりたいと思うことを全部他人にやらせて、しまいには鼠小僧まででてくる始末。三股町の農協に泥棒が入って、盗んだ金庫の金をマルタンにばらまいたという話が、ほんとに通用しとるんだから」(160頁)

 この引用箇所を、先に挙げた箇所と比較してみるとわかるのは、警官たちが「ほんとに通用している」と思っている噂は、当事者たちにとっては「風を吹かす」くらいの単なる気晴らしにすぎないということである。私が先に井上光晴の小説では不十分にしかなされていないと述べた「視点の限定」が、ここでは会話の断片から確認することができる。そして、この箇所が唯一の例外というわけではない。当のマルタン(炭鉱離職者)たちは、警察がおざなりの捜査で調書を作成することを知っている。少なくとも陰ではそう思ってせせら笑っている。こうした認識類型を書きわけるときの彼の筆は冴えている(しかし、噂という集団心理をたったひとりの個人に代表させることで、その不可解な浸透力がみせる匿名性の暴力への洞察を欠落させている。中上健次は、噂を描くときは地の文に限定し、ただ噂の起こる場所を「天地の辻」と呼んだだけで、主語の特定を賢明にも避けたように思う)。エネルギー資源の転換による炭鉱のすさまじい荒廃と、ともに追い詰められた資本家と労働者の対立という、タイトルがそのものずばりなだけにわかりやすい見取り図を呈示するよりも、井上光晴の主眼はむしろ、決して埋まることのない人々の認識の齟齬を描くことにある。したがって、私が井上光晴の方法の失敗の根拠に挙げた、視点の限定がなされていないという記述は正しくなく、より正確にいえば、限定された視点の関係性が徹底して相互に孤立している、という点にある。
この作品で井上光晴が事実関係を類推する人間の基本的な認識として挙げるのは、三つある。「記録」は現場の状況を収集する警察機構が、「筋道」は噂話に花を咲かせる詮索好きなマルタンが、そして「論証」は主人公の有家直道が担う認識方法である。それぞれに利害が絡んでいるために、事実は一枚岩ではなく三つの認識に寸断される。
ここで問題にしたいのは、井上光晴が前二者を不十分な認識方法だと考えていることと関係がある。なぜなら、「記録」はせいぜい捜査の過程で原因や証拠をいくつか積上げられるだけで、人間がその深奥に抱く動機というものに踏み込むことができず、「筋道」はなるべくしてなったということなかれ主義によって、結果から差し引いていくつかの出来事を勝手に捏造してしまうからだ。では、「論証」はどうか。井上光晴は、それ単体では不十分な「記録」と「筋道」を統合して唯一の真実に到達する手段としては、「論証」という認識方法を描いていない。むしろ、「記録」や「筋道」が再構成する徹底して自己完結した認識のまえに頓挫することで「論証」の相対的な劣等性が示されさえする。

「しかし、殺してしまうほど……」彼は混乱している思いのままを口にした。「そんなことで社長は殺されたんですか」
「そんなことで……」女はきき返した。
「真っ黒い蛇みたいな菖蒲湯を作ったことですよ」
 女ははあという声をだして口を大きく開いた。
「菖蒲湯のことだけで憎まれとったわけじゃないでしょうが、殺しといて焼くというのは少しひどすぎはしませんか」
「誰がそんなこというた」
「ここにくる前におばさんがそういうたでしょう。火事を見とる間、火の中に飛び込んだ者は誰もおらん。火が出る前に、誰かが投げ込んだに違いないって。……」
「あたしがそんなふうにいうたかね」女はふたたび耳の後ろを掻いた。「まあ、そういわれるならあたしがいうたことにしといてもいいけど、火事を見とったのはあたしひとりじゃないし、その間に誰も自分から火の中に飛び込んだりしとらんことは、誰でも知っとることだから。そうして焼け跡から屍骸がでよった。どうしてそうなったんか。誰でも考える筋道はひとつでしょう」
「つまり、有家社長は殺されたというわけですね」
「つまりか何かしらんが、そうしか考えられんというとるんですよ。誰がそんなこと告げよったかしらんが、警察は簡単に、社長が自分から飛び込んだと認めてしもうたけどね」
「誰も何もいわなかったんですか」
「何を」
「火事の中に飛び込んだ者は誰もおらんのに、警察がそういうふうにしてしまったこと。……」
「あたり前じゃないね、そりゃ」女はいった。「警察が都合のいいこと認めとるのに、それは違うという馬鹿が何処におるもんかね。そうそう有家社長はこれまで自分のやってきた罪を死んで詫びるというて、火の中に飛び込みなさった、みんなそういうてにやにやしとったよ」
 彼はハンカチをだして額の汗を取り、それから顎を拭いた。女のいた大工小屋からは事務所の裏口まで見えたのか。火事の間に誰も飛び込まなかったということをなぜ保証できるのか。そうききたい気持を抑えながら、彼はいった。
「そんなに憎まれとったのなら殺されても仕方ないが、一体誰が殺したのかね」
 女はそれに答えず、腹に両手をあてがうように立ち上がった。
「これだけきいて、五百円ださんとはいわんやろね」(125〜127頁)

 この会話のちぐはぐな印象は、両者の認識手段が相互に異なっているために、絶対に理解しあえないという状況から生まれる。認識手段は、自己理解を作り上げるほどには相手への説得としては機能しない。まったく機能しないといってもいいほどだ。こうした筆致に関する限り、井上光晴は徹底している。なぜなら、それこそが小説のみによって可視化することのできる「階級」という制度だからだ。
 だからこそ、彼が第三の認識方法として示した「論証」は、「記録」や「筋道」という異なる認識間のありうべき統合に向けられるのではなくて、なぜ自分はその問題をなぞとして認め、そのなぞを解こうとしているのかというおのれの衝動それ自体に向けられなければいけない。なぜなら、認識がその固有の社会的な所属意識にある程度は由来するものとして捉えられている以上、炭鉱の社長の息子として生まれた有家直道の出自が問われるべきことは、事件の真相を究明すること以上に自然な流れだからだ。しかし、井上光晴はそうはしない(「僕は何も知らないんですよ。一体父が何をやったというんです」)。物語構成上のすべてのお膳立てを整えておきながら、そうはしない。ここにはなにか訳があると思う。
 小説の終盤で、冒頭に直道が学校から帰省するバスのなかで聞いた噂話が現実に存在することが判明する場面がある。生きた犬の肉をえさにする鼠というのがそれだ。直道は出火騒ぎのあったあと、事情聴取された男(崔川春男)が自殺した事実を知る。縊死した崔川春男は、波並炭鉱で起きたメタンガスの爆発がもとで死亡した朝鮮人炭鉱夫の息子で、出火には遺恨関係があると何者かに密告されたという。警察の調書では、別件で取り調べがあったと記録されているだけで関連はないが、縊死した春男の兄の崔川俊伊は、弟の死を拷問された揚げ句の自殺だったと確信している。俊伊は過去の事実を語りだす。波並炭鉱でメタンガスの爆発が起きたときに、有家直道の父の重行が爆発を食い止めるために二号掘進と三号掘進のあいだを遮断した。二号掘進にはまだ生存者がいたが、有家重行は炭坑を守るために炭坑夫を見殺しにした。父を文字通り生き埋めにされたという俊伊は、有家直道をねずみの群集する小屋に閉じ込める。

「おれは十三、弟は十一。おれ達を焼き殺す気かという父親の言葉を伝えられてからだ。有家重行も同じようにおれを焼き殺す気かとおらんで死ねばいいと考えはじめたのは……」
「それで父を殺したのか」彼はいった。
「殺すもんか。お前の親父と命を交換にするほど馬鹿じゃない」小屋の外で男の語尾は少し顫えた。
「それなら、なぜ崔川春男は首を吊ったりするんだ。いくら拷問されたからといって、無実なら自殺することもあるまい」
「お里が知れたな」(207〜208頁)

 この場面は、自分の父を殺した男の息子に対する復讐といった、明解な図式を構成しない。崔川俊伊は有家直道を鼠のむしろに閉じ込めるが、それだけである。直道が父の罪の償いを述べるわけでもなければ、俊伊が復讐の代行を企てるわけでもない。ただ、炭鉱で起こった生き埋め事件が鼠の小屋で反復されるだけである。この状況が、先に述べた異なる認識方法の断絶という、井上光晴の方法論によって導かれたものであることは間違いない。始点と終点が円を描いて連結しているために、作品のおさまりとしては悪くないが、それだけに物足りなくもある。ここでは、問題が提起されていながら、回答を留保しているような印象がある。はっきりいえば、追い込みが甘いのである。「お里が知れたな」の発言は、もっとあとに来るべきであった。なぜなら、ここでは俊伊の父の炭鉱での生き埋めが反復されると同時に、弟の春男の警察での拷問も反復されるべきだからである。そのように口を割らせ、そのように事実を作り出す方法が存在することを、「認識」の手段として示すことも充分にできたからだ。私は、圧倒的な貧困や飢餓を繰り返し小説に書いてきた井上光晴が、そうした展開を予期していなかったとは考えない。予期していただろう。むしろ当然予期していたからこそ書かなかったのではないかと勘ぐってしまう。井上光晴は、「階級」というものを世代間で確固として受けつがれていく現象として提示しながら、人間の内面的なものの認識や判断にまではっきりと浸透する現象として提示しながら、有家直道という主人公にだけはそれを免れさせたようにみえる。その理由はなにか。「小屋の外で男の語尾は少し顫えた」。この一文はいったい何を示しているのか。嘘をついたから動揺したとでもいうのか。隠してきた過去の行為が取るに足りなかったと自覚して憤怒がこみ上げたか。小屋のなかに閉じ込められた直道が恐怖にかられてそう聞こえたに過ぎないのか。いや、そうではなくて、構成よりも観察のほうに筆が動いたということではないのか。井上光晴は、この小説を暗闇の中で仲間の干し肉を食らう鼠の描写で締めくくっている。この鼠たちの記述は精密で、非の打ち所がないが、しかし「論証」からはほど遠い。噂では生きた犬をも食らうという鼠たちは、もっぱら仲間を食うことに専念しているので、閉じ込められた直道は安全だ。したがって、この幽閉された鼠小屋は、どこまでも小説全体の比喩的な空間に留まっている。かくして、三つの認識の落差は埋まらぬまま小説は閉じられる。ただ、知ることそれ自体にはなんら責任はないという認識を温存するために。
 事実を知ることは、どのような形で事件の当事者であるかを知ることと結びつかない。だから、もっとも身近な者ですら部外者でしかない。部外者にとって知りうるのは、事実に至る方法がいくつかあることだけだ。井上光晴の小説では、無関係であることが、責任という相互依存の呪縛にとってかえられる。したがって、「論証」できる現実はこの世界には存在しない。なぜなら、唯一の現実とは、相互に異なる認識によって了解された共通の領域にしか存在しえないが、認識方法の違いが対話の可能性をそもそも許さないからである。この考えは、肉体的に蓄積された疲労は他者とは共有できないという彼がそれ以前に提示した洞察よりも正しいといえるだろうか。嘘が成功するためには、当の相手が当事者ではない場合にのみ可能である。そのときだけ、事実関係はそれ固有の重みを失って、好き勝手に書き換えることができる。嘘とは、事実の唯一性が保証されていない世界でのみ可能な認識方法の提示であり、その限りで嘘は唯一の真実でありうる。井上光晴は、故郷を離れて自らの出自を偽った。地元の人間はそのことを知って鼻で笑い、「嘘つきみっちゃん」の綽名を思い出した。そうして井上光晴は小説家になったが、作品世界のなかにおいてさえ、事実の唯一性から自由になれるという幻想に浸ることは、ついになかったのではないだろうか。井上光晴はそれを到達できないものと位置づけ、誰にも手の届かない場所に隠したつもりだったが、やがておせっかいな現実がやってきて復讐をした。
 彼はそのもって生まれた宿命に忠実なままに、自己正当化の罠にとらわれ続けた。ことばは一度口に出されると、枝葉を伸ばす自然な延長を求めるものだ。井上光晴は非凡な嘘つきだったが、ほとんどの嘘つきがそうであるように、周囲に広がった嘘を断ち切ることはなかった。嘘だとばらすのはいつでも決まって聞き耳を立てた他人なのだ。だが、忘れてはならないのは、彼が嘘つきと呼ばれるようになったのは、根も葉もない法螺話をついたからではなくて、堂に入った誇張癖の故だったということだ。井上光晴は十五歳の初恋を語るとき、菅牟田部落の「朝鮮ピー屋」清津亭から浜辺を列になって進む若い女たちが歌舞音曲に身をゆだね、陽を浴びてあでやかなチマチョゴリが風になびく情景を思い出したが、二階建ての遊郭は実際に存在したものの彼女たちが「赤、緑、桃色の紐と襟をつけた華やかな朝鮮服」(『岸壁派の青春 虚構伝』)を着ることは――祭日でさえ――なかった。炭鉱での過酷な労働環境では、狭い坑道の崩落やガス爆発などの突発的な事故による死人が絶えなかったために、「死人の声を聞くことができる」という井上少年の触れ込みは未亡人や遺族の口から口に伝わり、やがては祖母に列の整理を頼まなければいけないほど繁盛したという。この井上自身の証言は同級生の手によって根拠のないものとされたが、それは規模についてであって、彼が霊媒師の真似事をした事実までは否定し得なかった。父の職業や祖父の出生地を偽ったことは粘り強い検証によって確かめられたが、長い歳月が流れて彼の嘘が暴かれたときには、なぜそのような嘘をついたのか、また、誰にその嘘をついたのかという肝心の状況は忘れ去られ、ただ井上のついた嘘という事実だけが残った。人々が彼を嘘つき呼ばわりするようになったのは、ようやくそのあとのことであった。