2011-06-01から1ヶ月間の記事一覧

(その二十九) バス移動

新宿駅西口を午前九時に出発したバスは、関越道を降りてからずっと、同じような景色の続く国道をひた走っている。僕はバスの中を見回した。三十人ほどの若者が、それぞれ窓際の席に陣取り、眠ったり、ヘッドフォンステレオを聴いたりしている。友達同士で参…

(その二十八) 出会い

「ちょっと裸になれ」と、力道山が言った。それが彼の最初の言葉だった。 アントニオ猪木『男の帝王学』ワニブックス 一九九〇年六月一日 103頁 十三歳でブラジルに渡った頃の猪木寛至は、すでに身長が一八五センチを越え、学校の体育教師を投げ飛ばすほどの…

(その二十七)清潔

藤田嗣治は、シャイム・スーティンに歯ブラシを与え、その使いかたを教えた。それがなんのためになるのかをスーティンが理解しようと思ったのは、藤田のとなりで喉もとにこみ上げる嗚咽をがらがらうがいで流し去ったときではなく、つるつるの歯で行きつけの…

(その八十三) ボゾ

翌朝、われわれはもう一度パディの友達を探しにかかった。ボゾと言って、大道絵師、すなわち道路の上で絵を描く男である。パディの世界には住所などは存在しなかったけれども、ボゾはランベスで見つかるのではないかとは漠然とわかっていて、結局エンバンク…

(その八十二) パディ

パディはそれから約二週間、わたしの相棒になった。そして彼こそとにかく親しくなったと言える最初の浮浪者だから、彼のことについて書いておきたい。彼は典型的な浮浪者だし、英国にはその仲間が何万といるはずだからである。 パディはわりあい背の高い、三…

(その八十一) アンリ

下水道で働いているアンリもいた。背の高い、縮れ毛の陰気な男で、下水工夫用のブーツを履いているとなかなかロマンティックな男前だった。変わっているのは仕事のこと以外口をきかないということで、文字通り幾日でも口をきかなかった。彼はわずか一年前ま…

(その八十) ルージエ夫婦

変わり者もいた。パリのスラムは変わり者の巣窟である――孤独で狂った同然の人生に落ちた結果、ふつうのまともな人間になることをあきらめてしまった連中だ。金が労働から解放してくれるように、貧乏は人間を常識的な行動基準から解放してくれる。このホテル…