(その二十七)清潔

 藤田嗣治は、シャイム・スーティンに歯ブラシを与え、その使いかたを教えた。それがなんのためになるのかをスーティンが理解しようと思ったのは、藤田のとなりで喉もとにこみ上げる嗚咽をがらがらうがいで流し去ったときではなく、つるつるの歯で行きつけの売春宿に向かったときだった。スーティンは女たちに歓迎されただけでなく、気前よく酒までおごってもらった。
 ベラルーシからパリに流れ着いたばかりのスーティンに、身よりはだれもいなかった。異国の芸術家たちが多く滞在していたラ・リューシュに寝床を定めたのは、住んでいたからではなくて、そこならいついても追い出されなかったからだ(伝説によると、彼は最初の自殺未遂を寄寓していたアトリエの梁の下で決行したが、運よく住居人のクレメーニュに見つかった)。旅費を払ってくれたヴェルノの医者からいくばくかの仕送りが届いたが、不定期で額もまばらなので、頼りにできない他者への依存性を強め、止むに止まれぬ手癖の悪さを発達させた。デッサンをするために果物を昼の露天でくすね、夜中市場に忍び込んで若鶏をかっぱらった。ロトンドやドームで一杯引っかけてくる男たちの気前の良さを常にうかがっていたので、「汚れた犬」というありがたくない呼び名を授かったこともあった。彼は実際、ひどく汚れていた。南京虫に食われた赤い腫れをからだ中にこしらえ、肉体のふさふさした部分には常に元気なしらみが飛び交っていた。家族の愛情を知らない彼にはからだを洗う習慣がなく、石鹸を泡立てる指先のかわりに止まらないかゆみを鎮める爪を立てたひっかき傷が、皮膚の皮を厚くしていた。衣服にこびりついた泥はさざなみの模様と化し、すっぱい汗の臭いが二町先でも鼻をついた。そのため、鳴り物の音に目がなく逆さに振っても鼻血も出ないほど貧乏で不潔に甘んじていた長屋の絵描きたちでさえ、そのあまりの汚さに彼に近づこうとはしなかった。ただ、藤田嗣治だけが彼を手招きし、慣れない優しさに脅える彼を抱きとめ、静かに膝に寝つかせると、旺盛に跳ねるしらみを一匹ずつ二本の指でつぶしていった。
 シテ・ファルギエールでスーティンと親しく接し、人生の慰みを教えてくれた人間はふたりしかいなかったが、モディリアーニが酒と放浪の友だとしたら、藤田は清潔が最善の徳である身なりを整えることの意味を教えた。十四区の「ヴィラ・ローズ」と呼ばれたシテ・ファルギエールでは、藤田が二階にアトリエを構え、その真下にモディリアーニが住んでいた。
 だが、スーティンに芸術の価値を教えたのは、彼自身の孤独だった。それだけは誰にも教えることができなかったし、学ぼうとして学べるものでもなかった。のちに消毒薬で財産を築いたアルバート・C・バーンズが棚の引き出しに眠っていた彼の作品をまとめて買い上げたことが契機となって、一フランで買い叩かれた油絵の値はまたたく間に高騰した。一昼夜にして「汚し屋」からドル札に囲まれた生活を送るようになったスーティンは、郊外の城に引っ込み、ひっそりと隠棲した。彼が最も怖れたのは、地から湧いたような世俗の評価の急転でも、価値を見い出された作品の二番煎じを描き続ける未来の苦役でもなく、極貧のなかで苦しんだ孤独の姿を賛嘆の眼差しを隠さない人々の眼にさらされることだった。彼が自分の不潔さに直面したのは、実にそのときがはじめてだったといえるかもしれない。なぜなら、彼の若いからだを覆い、内面にまでもしっかりと根を張った不潔の存在は、逃れられない宿痾などではなく、石鹸の泡を立てれば皮膚から浮き上がり、香水をひと振りふりかければ顔をひっこめ、ブラシをかければ落ち、身なりに金をかければ寄せつけずにさえいられるものだったからだ。しかし、人々が諸手を挙げて褒めたたえ、評者によってはゴッホ以上の才能を見い出した彼のかつての穢れた、野放図で奔放な姿は、賞賛によって振り払えぬ影の濃さを増し、ヒステリックな甘言で縫い閉じられ、永遠に固定されるかに見えた。
 捨てても無くならない金を手に入れ、こざっぱりしたスーティンははたして幸せだったろうか。かつて、黒ずんだ爪に舌を伸ばしたとき、彼はなにも感じなかった。少なくとも、以前は。新しく彼を捉えた感情は、なんともいいようがなかった。彼はどこから見ても紳士然としていた。プレスがかかったズボンは磨いたイタリア製の革靴を踏み出すたびにひらひらと揺れた。意気揚々とした気分は、喉もとからこみ上げるげっぷにかきけされた。新品の服は居心地が悪く、ネクタイを緩め、思わずため息をついた。モンパルナスの掃き溜めのような小路で、スーティンははっきりと自覚した。彼は汚れていた――まっさらなシャツも隠しようもないくらい。汚れていることはわかっているが、きれいにすることができない。酔うと衣服を脱ぐ癖があるモディリアーニの放浪も、対人関係に光を当てた藤田の清潔も、なんの役にも立たなかった。それは、スーティンが生まれて初めて味わった、恥の感覚だった。
 愛人の証言によるとスーティンは、法外な額に達した絵をコレクターや画商から買い戻し、荷役人が彼の城まで届けたその場で破り捨てたという。晩年は再び貧窮に陥り、陥落したパリを離れて中部の村を転々とし、制服のナチスから姿をくらました。彼の持ち物は薄汚れた革の靴一足だけだったという。四三年に再び踏んだパリの地で彼は没した。死因は胃潰瘍だった。若い時分はなんでもほうりこんだ彼の胃は、自らの分泌する胃液ですっかり穴だらけになっていた。