(その二十五) 分身

「首尾はよくなかったよ!」と、バティストはアナゴを指して言った。
 彼は、釣り人が波止場にじっと立っている野次馬にでも話しかけるような口振りで、ロンドンから来た男に話しかける。
 つぎは、ロンドンから来た男がバティストに話しかける番か? 男が長い間じっと待っていたのは、そのためではないのか? マロワンはそう確信していた。彼には、自分が邪魔者であることはわかっていた。だが、いまではもう立ち去る気など微塵もなかった。バティストが波止場の岸壁をよじのぼっている間、痩せこけた顔のイギリス人は、わずかに横に動いた。そのとき初めて、二人の視線が出会った。不安そうな、びっくりしたような眼差しの二人は、どちらも相手から目を離すことができなかった。
 マロワンは突然、怖くなった。何もかもが怖くなった。ロンドンから来た男のほうも、身動きせずにじっとその場に突っ立っている鉄道員が怖くなったようだった。
「転轍操作室のほうに目をあげてはいけない」と、マロワンは心に言いきかせた。「彼はすぐに悟ってしまうだろう」
 しかし、彼は思わず、転轍操作室を見あげていた。相手が自分の視線を追っていることは、十分承知していた。
鉄道員の制帽にも気づくだろう。そうなれば……」
 当然のことながら、男の目は制帽のほうに向けられた。
「おい、相変わらず散歩かい?」とバティストがたずねた。
 マロワンは返事をせずに、逃げ出した。不器用にも、小エビを背負った女を突きとばし、魚市場の人々をかき分けて走り、市場の反対側まで逃げた。背後を見たとき、もうレインコートの男の姿はなかった。
 マロワンのように男もいきなり、理由もなく、駆け出したことはたしかだった。市場の向こう側の端で、男も同じようにマロワンの姿をさがしているのではないのか?
     ジョルジュ・シムノン『倫敦から来た男』長島良三訳 河出書房新社 二〇〇九年一〇月九日発行 23〜24頁


 犯罪は、三つの地形(ロンドンからの客船、ドック、転轍操作室)で展開される。それぞれの地形には、主犯者・共謀者・目撃者が対応している。マロワンは、ある霧の深い夜に、ひとりの男がドックにたむろしているのを見つける。通りかかった客船から、ドックに向けて鞄が投げこまれる。ドックの男はそれを拾い、やがて税関を抜けてきた男と握手を交わす。ふたりの信頼は長くは続かず、船から降りた男は鞄を拾った男を殴り、共犯者は漆黒の海に引きずりこまれるが、その瞬間死にゆく男は鞄を道連れにする。船から降りた男は未練を残したままいったん現場を立ち去る。マロワンは、転轍操作室から一部始終を目撃する。マロワンは階段を降りて、ドックにはいつくばって海のなかから大金の入った鞄を発見する。マロワンはそれを職場のロッカーに隠す。引用したのは、マロワンがその日の夜勤を終えて、帰宅する途中に主犯の男と遭遇する場面である。
 シムノンのモティーフである分身のテーマは、先に示した主犯者・共謀者・目撃者の三幅対の一角が脱落することによって始動する。それは失われた(はずの)現金をめぐる駆け引きといった犯罪小説によくある古典的な場面を構成しない。問題はあくまで分身にあり、まったく境遇の異なったふたりの男が似通った状況に陥る物語を、シムノンは執拗に記述していく。メグレ刑事シリーズの短編である『街中の男』にもこの分身のテーマの典型を読むことができるが、追うものと追われるものとが連帯しあうのは、恐れと疲労が等しく降りかかることによる。いてつく寒さや寝床も定まらない暮らし、慌しい粗末な食事やプレスしていないよれよれの服が、共通して男たちの姿に現れる。ひとつの事件を介して分かちがたく結ばれた男たちは、ただ相手に似通うことによってのみ、状況を打開しうると考える(したがって、マロワンにとっては、犯罪を目撃したことによって犯罪者になる)までにいたるのは、突如として現れたこの類似性が絶対的だからだ。その意味で、後戻りできない罪悪感や相手を出し抜く打算といった、相互の差異を指摘しあうことによって両者の幅を補完しあう伝統的な探偵小説の会話技法や視線の交差はまったくといいていいほど見られない。しかし、それだけにシムノンの小説にはジャンルの要請する純粋な形式性すら感じられる。
 分身のテーマは倫理的な問題を生み出さないという意味で、なぜかシムノンと同列に論じられることの多いドストエフスキーとは一線を画している。ドストエフスキーが『罪と罰』で問題にしたのは、孤独な青年による老婆の殺害を通して救済の可能性を探ることであったが、シムノンの小説においてはある状況や行為を受け入れるという身振りにいかなる救済の問題も見ることはできない。金貸しの老婆が「シラミ」のような存在であったとしても、ラスコーリニコフに自らが行った殺人行為を正当化する権利はない。犯した行為が罪の意識をもたらさず、したがって改心の可能性はひとえに贖罪ではなく、愛するという身振りにおいてのみ見出されるのがラスコーリニコフの抱える実存的な問題機制である。自らが裁き手となることによって引き受ける罰は罪の意識をもたらさないという意味ではマロワンの行為も同様であるが、その後にシムノンが展望するのは救済の可能性ではなく、助かろうとする意識がかえって(犯罪者である)相手に似通わせる動因になる、という暗い見通しである。ドストエフスキーにとっての倫理は、行為の後にようやくその真価が問われるものであったが、シムノンにとっての倫理は、(それがあるとすれば)行いうるのはただひとつの行為しかないという諦念にのみ宿る。ドストエフスキーにとって状況は選択的ですらあるが、シムノンの描く状況は絶対的である。行為を正当化する必要がないのは、マロワンにとってはなしうることがそれ以外にありえなかったからだ。しかし、マロワンが自宅にまで追ってきた「ロンドンから来た男」を殺害し、分身の呪縛からいったん解放されたときに、はじめて道徳の問題が出現する。それは、人間に死をもたらす行為に関する次元ではなく、殺害されたブラウンという曲芸師にも、自分と同じように当たり前の家庭があり、妻がいたという事実を知ったことによる。マロワンは自首して現金を返す。作家としてのシムノンは、マロワンが自分の家庭とブラウンの家庭を比較した結果、すべてを認めて自首することにしたとは書いていない。そして、この判断はおそらく正しい。なぜなら、そのような比較は「夫の死んでいないだけマロワンの家庭のほうが(同じ犯罪者同士でも)ましだ」という判断から導かれただろうが、そのような判断は控えめにいってもつまらないだけでなく、有害である(もっとも、こうした反応を、事件の経過を知らない近所の人々の描写によってシムノンは描いている)。あくまでシムノンは分身を描いたのであり、自首という行為は分身との最終的な同一化の過程において読みとらなければいけない。