2010-09-01から1ヶ月間の記事一覧

電話にて

Kから二週間おきに電話があった。私の携帯電話は、着信音が四回鳴ると、留守番電話サービスに接続される。日ごろ顔を合わせていない相手や、仕事上のやり取り以外の電話には、この四度の着信音の範囲内ではどうしても出る気にならなかった。だから地元のK…

言語で処理する自分自身

話をしながら、自分の会話をラフにスケッチするのだ。ちょうど彫刻家の粘土像のように。話し言葉は可塑的で、どんなふうにも出来る。 叩いたり、なだめたり、延ばしたり。ぼかし、こすり出し、盛りつけて、継ぎ足す。それがとても簡単にできるのは、ソフトな…

サルビアの向こう側で マノエル・ド・オリヴェイラ『過去と現在、昔の恋、今の恋』(1972)

もはやあまりに定番すぎて、それが何を表す曲かはだれもがみな当然のように知っているとうなずきあいながら、いざ曲名を問われると不審なことに肝心の題名が出てこず、あれよあれあなた知ってるでしょと耳打ちしあい、ときには擬音でパパパパーンと恥ずかし…

(その三十二) ダヴィデ・マリア・トゥロルド

今日、ダヴィデ・マリア・トゥロルドは、大手出版社のモンダドーリなどから詩集の出る、彼なりの読者層にささえられた詩人である。彼の詩は、語彙としてはレオパルディの抒情詩に、また形式的には初期のウンガレッティにつよく影響されていて、それが本人に…

(その三十一) J

私の知り合いで「借金の天才」「借金踏み倒し王」と呼ばれているJという男がいる。「金を借りるということは、もらったということだ」と常日頃から公言している奴で、現にこれまで三十億円ほど借金しているが、一銭たりとも返したことがない。それでいて、…

(その三十) ベルトルト・ブレヒト

学校では紋切型の教師たちに飽き足らず、学業を怠け、両親と先生を悩ました。当然の結果として、進級がむつかしくなったこともある。当時の同級生で後に医者になったオットー・ミュラー(ブレヒトはミュラー=アイゼルトと呼んでいた)の回想するところを信…

電車にて

「どっちかっていうと、詩人になりたい」と、私に告げた女がいた。驚くほど無愛想な女で、その続きを聞くことをためらい、どうしてそんなひと言が飛び出してきたのか忘れてしまった。いつもだらしなく口を開けている女で、耳をあてて近づいてみると、どんな…

感情に含まれた、想像されたもの。恐怖。

かつて師は、弟子の陳情に答えてこう言った。あなたは、人生のあらゆる場面に忍び込む恐怖をなんとか克服する方法を知りたいと言った。まず、恐怖を克服するためには、それに打ち勝たなければならない。恐怖に屈してなお克服することはできないのだから。し…

(その二十九) グロリア

グロリアにとっては、私は庭のようなものだ。草取りをしたり、剪定したり、結んだり、しぼんだ花を取り除いたり、アリマキを退治したりする必要がある。ときどき私がフォークを右に、ナイフとスプーンを左にセットすると、もう何十年もやっているのにどうし…

(その二十八) 二葉亭四迷

私が二葉亭を珍重おかないのは、彼が矛盾と撞着に満ちた人だからである。空想家でありながら、空想家でないと言いはってきかない人だからである。 文学は男子一生の事業でないと彼は口で言うばかりか本気で思って、国事に奔走するのが男子の本懐だと信じてい…

文したため候

拝啓。連日の猛暑も一息ついた今日この頃いかがお過しでしょうか。 私がこの文面をしたためている喫茶店では、幾多のカップルが浮世離れした様相で言葉を交わしあっております。なかでも左手に座っている男女などは、はたしていつから座っているのか、氷の溶…

変革ハムレット

集団における単純な情報伝達は読み手・受け手に義務ないし責任がなくては機能しない。 その意味で内容を見たくなるような詳報伝達の構成・デザインの工夫は必要だろう。もちろん対象自体に興味が向いてれば、シンプルな情報伝達でも読み手から積極的にアプロ…

(その二十七) アリス

女は彼に新しいネクタイを買うと、本人の気に入ろうが入るまいが、それを締めさせたがるタイプだ。それなのに、こっちが花束を持って行ってやると、色がどうのこうのと文句を言うのが気にくわない。何も花を身につけてくれってわけじゃないのだ。 アラン・シ…

(その十) 胸の高鳴り

彼がことを台なしにしてしまうのではないか心配だった。もしそんなことにでもなったら、一大事だ。それから窓をしめてカーテンを引いたほうがよかろうと思いついた。たてつづけに煙草をふかした。時計はまだ十一時十五分。あることを考えつくと、彼の胸は早…

梁塵秘抄

遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ動がるれ