(その二十九) バス移動

 新宿駅西口を午前九時に出発したバスは、関越道を降りてからずっと、同じような景色の続く国道をひた走っている。僕はバスの中を見回した。三十人ほどの若者が、それぞれ窓際の席に陣取り、眠ったり、ヘッドフォンステレオを聴いたりしている。友達同士で参加した者は誰もいない様子で、何の私語も交わされない、静かな車内だった。
 僕らは、派遣会社に集められた集団で、新潟県柏崎市にある、携帯電話やデジカメを作る精密機械の工場に向かっているところだった。
「皆さん、ちょっと聞いてください」
 運転手のすぐ後ろの席に座っていた「アグレス」の社員が、マイクを片手に立ち上がった。「アグレス」とは、僕がネットで探して契約した人材派遣会社の名だ。マイクで喋っているのは、四十代半ばの、背の低い、容貌の冴えない男で、後ろから見ると頭頂部が禿げていた。
「皆さん、お疲れ様です。私は、皆さんをお世話する森本と言います。よろしく尾根配します」
「よろしくお願いしまーす」
 キクチ一人がはっきりと返答したのが、バスの中に響き渡った。森本が、嬉しそうにキクチの方をちらっと見た。
「えー、このバスは、もうじき柏崎市内に入ります。それから皆さんの宿舎に送り届けることになりますが、前にも言いましたように、食堂などはありません。食事は各自で用意することになっていますので、希望者があれば、次のコンビニで停車することにします。希望する人は手を挙げてください」
 ほぼ全員が手を挙げた。勿論、僕も。またコンビニ弁当か、と思わなくもなかったが、賄いもないし、自炊など面倒だから仕方がない。俄に、網棚から荷物を下ろす音や、コートを羽織ったり、身繕いする者たちで、車内がざわついた。僕も大学時代から着ている黒のダウンジャケットに袖を通した。僕の持ち物は、身の回りの物とノートパソコンが入った、たった一個のナイロンバッグだ。僕の全財産。パソコンは、佐緒里と僕を繋ぐ唯一のものだったから手放すわけにはいかなかった。アパートは、金がなくなって解約した。受験勉強をした机も、父と買いに行ったベッドも売ってしまった。僕が帰る場所は、もうどこにもない。
 清掃会社をクビになった僕は、ネットで探した「アグレス」という派遣会社の面接を受けた。緊張して適性テストを受けたのに、小学生並みの算数や、ビスを穴に差し込むだけの簡単なものだったので、ひどく拍子抜けした。単純作業をするのは憂鬱だったが、寮が用意されて仕事があるのなら充分だ、と思う気持ちの方が強かった。
 寮は、二人ひと組で2Kのアパートに住み、テレビや布団などは賃与されるのだそうだ。給料は二十二万円という話だったので、そのうち十万近くを貯金し、一年後には再度入試を受けて、大学に入り直そうと思っていた。しかし、僕はその年の夏で、早くも二十五歳になろうとしている。常に、自分は何をしているのだろう、という焦りがあった。
 バスは、街道沿いの大きなコンビニエンスストアの駐車場に停まった。森本がバスのドアを開けた途端、冷たい風が、暖房と呼気とで淀んだ車内に吹き込んできた。
 僕らはぞろぞろとバスを降りた。桜の蕾が膨らんで、春爛漫だった東京が信じられないほど、真冬のような寒さだった。霙混じりだった雨が、水分を多く含んだ雪に変わっている。僕たちは皆寒さに背を丸め、濡れないよう小走りで、コンビニに駆け込んだ。
 弁当の棚の前は、いち早く着いた者たちが立ち塞がって選んでいるため、近付くこともできない。僕は仕方がなく、カップ麺などを買い込んだ。ふと見ると、隣にキクチが立っていた。
「蕎麦弁当しかなかったです。世の中、世知辛いですよねえ」
 キクチが籠の中を見せながら笑った。他にも、菓子パンやスナック菓子を幾つか放り込んでいる。キクチが僕の籠を覗いて、忠告してくれた。
「部屋にヤカンがあるかどうかわかんないから、お握りとか買っといた方がいいと思いますよ。何せ、世知辛いから」
 確かに世知辛い、と僕は苦笑した。ヤカンの有無なんて、考えもしなかった。そう言えば、アパートを出る時、最後に捨てたのはヤカンだったことを思い出した。その時、とうとう香月家の最後の家財を捨てた、と滑稽に思ったことも。
「ありがとう。よく知ってるね」
 キクチは、不自然にピンクに塗った頬を緩めた。
「あたし、こういうの慣れてるんですよ」
 僕は棚の前に戻り、売れ残ったお握りを数個籠に入れた。具の種類など吟味している余裕はなかった。それからレジ前の長い列に並び、膨らんだレジ袋を持って、またバスに戻った。バスの乗り口で、森本が一人一人に紙を渡した。アパートの部屋割りだった。僕の部屋は一階の端っこだ。しかし、驚いたことに、四人部屋だった。面接では二人部屋だと言われたのに。車内を見回すと、同じように不満そうな視線が交錯していたが、誰も森本に尋ねようとはしなかった。森本は単なる世話役だから、森本に聞いたところで満足のいく答が返ってくるはずがない、という諦めが漂っていた。
 再びバスは出発した。夕方の渋滞する国道を抜けて、柏崎駅前らしき場所を通りかかった。僕はあまりの寂しさに絶句した。再開発中なのか、建物が取り払われた跡のように、がらんとしている。ビジネスホテルがぽつんと建っている以外、めぼしい建物はない。
 歩く人の姿もほとんどなく、濡れた道路はシャーベット状の雪に覆われ始めて、幾筋もの車の轍だけが残っている。森本が前を向いたまま、マイク越しに陰気な声で喋った。
「えー、この先のアーケードが、駅前商店街になります」
 僕らは、横殴りの雨雪が降りしきる、人気のない商店街を声もなく見つめた。濡れた窓ガラス越しに、ところどころ、明かりの点いた食堂や、商店などが見えたが、戸を閉めて営業していない店も多く、気が滅入るような寂しい光景だった。森本がわざわざバスをコンビニエンスストアに停めた理由がわかったような気がした。
「あ、イトーヨーカドーだ」
 後ろからキクチの、わざとらしく弾んだ声がしたが、僕は振り返らなかった。
 バスはしばらく走り続け、やがて町外れのアパート郡の前で停まった。低い山の裾野にあって、周囲はぽつんぽつんと住宅が見える以外、何もない。野原の草が黄色く枯れたままで、雨雪に濡れて萎れているのが、何とも言えずに陰鬱だった。森本がマイクなしで叫んだ。
「ここです。皆さん、忘れ物のないように降りてください」
 全員、荷物を持って、濡れながらバスの前に並んだ。キクチが折り畳み傘を出して差している。僕もニット帽を出して被った。今にも陽が暮れようとしているので、森本が早口で言った。
「男子がA棟、女子がB棟です。鍵は私が預かっています。先ほど渡した紙の名前の横に、丸印が付いている人がいるはずです。その人が一応リーダーと、こちらで勝手に決めさせていただきました。その人は、鍵を取りに来てください。後でひと部屋ずつ、私が回って不備がないかどうか確かめます。だから、早く部屋に入ってください」
     桐野夏生『メタボラ』朝日新聞社 二〇〇七年五月三〇日発行 464〜467頁


 小説技法という観点からこれまで桐野夏生の著述活動が論じられたことは、ほとんどないといっていい。それは、小説家としての彼女の技法上の探求よりも、彼女が新作を物すたびに取り上げる刺激的な題材のほうが耳目を集めやすかったためもあるだろうが、そればかりではあるまい。村田ミロという傑出した女探偵が活躍する一連のシリーズは、『顔に降りかかる雨』から、ピアスやボンテージ、死体写真の愛好家たちがうごめく魅惑的な地下世界を描いていたことだけが注目され、桐野夏生という作家が日本の地にハードボイルドという小説ジャンルを移植するために受け入れた伝統的な設定――父がしていた探偵稼業を娘が受け継ぐという象徴的な儀式性や、友人の失踪を調査することから意外な真相が浮かび上がるという、『ロング・グッドバイ』が決定づけた事件の発端――だけでなく、些細だが決して見過ごせない変更までもが指摘されないままでいる。それは、ダシール・ハメットであれレイモンド・チャンドラーであれ、ハードボイルドの偉大な始祖たちがカリフォルニアの太陽と海のもとでその物語を語り起こしたように、桐野夏生は女探偵物という極めて特殊な呼称にまとめられるようになったジャンルを開拓することになるその作品の時期を、あえてじめじめした梅雨空のもとに始めたことである。サム・スペードやコンチネンタル・オプ、フィリップ・マーロウといった、くたびれたスーツをはおる私立探偵たちに暑い陽射しと潮風が欠かせなかったように、洗いざらしのTシャツにジーンズという格好の村田ミロには、降り止まない雨がよく似合う(二作目の『天使に見捨てられた夜』ではクリスマスの雪にかわる)。この天候上の文学的伝統からの「逸脱」は、矢作俊彦のような最良の作家がカリフォルニアとの少なからざる類縁性から横浜を舞台にハードボイルド小説を書き始めたことよりもずっと重要な意義があると思う。なぜなら、降り止まない雨が灰色の雲で太陽を隠すように、ハードボイルドという伝統は、現代作家である桐野夏生にとってはいったん断ち切られてしまった領域だからだ。これは、国土や時代の問題というよりも、探偵を担うことになる女という存在が抱える宿命である。
「割に合わない」とは、彼女が好んで小説の主役に据える人物たちが共通して担う状況を指すもっとも的確な言葉であり、のちに探偵小説というジャンルが不可避的に抱えるミステリー的構造(過去に起こった出来事の解明の先延ばしと、解明する行為自体が事件への介入とその延長を意味すること)を通過しない小説を書き始めたあと――具体的に言えば一九九九年に単行本化された『柔らかな頬』以降――も、ひとしく過酷な社会を生きる人々の姿が活写されるさいのモティーフになっている。彼らが踏みこんで行く世界が「不幸」や「搾取」ではなく、単に「割に合わない」と名づけられることは、長らく小説の重要な主題であった「大いなる運命に対する個人の抵抗」でも、「社会の不正に対する抗議」でもない独特の小説世界を構築した桐野夏生の関心と実践の双方を示している。おそらく、現役の作家で桐野夏生の文章ほど「文学的」でない文章はないだろう。私がこの論を書き出すにあたって小説技法という観点で取り上げようと思ったのも、ひとえに彼女の書く文章があまりに「禁欲的な」ためだ。簡素な象徴と類似を対応させる比喩がやや多様されるのは、複雑な事件列の叙述の省略が目的とされているためでそれ以上のものではなく、また、説明的な比喩表現に引きずられて出来事が(もっぱら作者の側による)意味づけを与えられることもない。そのため、桐野夏生の文章はごつごつしていて、深みを求めず、仮借ない。気の効いた比喩表現を考え出すのにどれだけ作家が頭を悩ますかを考えてみれば、かえって新鮮に感じられるが(あの安部工房ですら、巧みな比喩の一文を作り出すために一日丸まる費やすことも珍しくなかった)、もちろん、これは多作を要求される人気作家の負の側面ではない。修辞上の飛躍をいっさい許さず、あくまで描かれつつある主人公に寄り添い、そのときどきの行動や発言、意識の追跡を記述していく彼女の現実的なといっていい物事を観察する姿勢は、主人公の人物造型にもあらわれている。
 村田ミロの登場が鮮烈だったのは、彼女のものの見方が非常にシンプルだったことによると思う。他人を観察する基準は、たった三つの視点にまとめることができる。それは、肉体の美醜であり、ファッションセンスであり、仕事の能力である。三つの視点は個人の最も観察しやすい社会性を示しており、桐野夏生のもっとも大胆な面は――記憶や経験という、一般的には人格の深淵を構成すると思われている典型的な二大要素をときには過小評価しているようにみえるほどまで――社会性という表層の多様性を描ききることに主眼を置く姿勢にあらわれている。桐野夏生の小説世界では、むしろ経験や記憶は社会性の上にしか構築されないといっていい。『メタボラ』ではこの問題が、かつてそうであった自分とこうなりたい自分との葛藤というドラマに還元され、その狭間に記憶喪失の主題が召喚される。記憶や経験はいったん消去され、新たに生れ落ちた世界でのサバイバルが(嘘も含めて)彼の新たな人格になっていく。重要なのは、彼が一時的にタブラ・ラサの状態に陥ったことではなく、そのつど白紙の上に書きつけられていく断片でしかなくなった自分を理解することだ。それは、記憶をなくして本人確認に必要なあらゆる個人的データを失った以上、他人の問いに対する場当たり的に取り繕った発言が、もしかしたら(結果的には)嘘かもしれないという不安を絶えず抱えることであり、他人の視線にまったくの無防備にさらされることである。このような状況に追い込まれた男は、他人を見るように自分を見る不断の努力を強いられる。肉体も、あくまで生活状態の反映において捉えられることに変わりはない。寝不足が続けば目の下に隈が浮くように、不摂生がたたればニキビが顔を出すし、わき腹には余分な肉がつく。金がなくて一日の食事を二回に減らせば、頬がこけて目つきが鋭くも卑しくもなる。こうして自意識とは現在そうである自分自身に対する正当な評価となり、評価が生活観の反映でしかない以上、だれもが簡単に見て取ることができる外見上に露出していく。桐野夏生が登場人物の化粧やファッションを批判的に書くときは決まって、彼および彼女がそうであるところと「自分はこうである」という自己イメージとの乖離が批判材料になっていることを忘れてはならない。彼女の場合、センスとは常人とかけ離れた美的感覚を有することではなく、単に他人の目と自分の目が一致することなのだ。
また、先に挙げた社会性の三つの指標は、あまりに公平無私な視点を提供するため、ときには好悪の判断とも別個に働くことになる。それがもっとも尖鋭に見られるのが、ミロシリーズの「お約束」となる「憎むべき男と性交渉を持つ」というテーマである(このテーマは、のちに東電OL殺人事件を題材にした『グロテスク』や幼女監禁事件をモティーフに密室の愛を描いた『残虐記』においてはるかに徹底されることになる)。ヒステリー症の魅惑的な女とのセックスは、ハードボイルドの初期においては禁忌として作用していたが、ミロは糾弾すべき相手や隠し事を持つ相手を憎みながらも進んで身をまかせる。このセックス描写ははっきりいって、読んでいて不快になるが、下層労働者にとって「有能」になることが搾取する側の片棒をかつぐことにつながるのとちょうど裏返しの関係になっていて、相手の男を人間として不快だと感じることと欲情は別個に作動する。セックスは衝動的な快楽を約束するが(ときには報酬としての金銭も)、それだけであり、かえって事後に罪障感をもたらすように、不正を強いる企業に求められるままに「有能に」働く行為は、疲労や孤立感を深めることになる。「不幸」や「搾取」という旧来よく使われてきた言辞に不備があるのは、彼らの進んで適応していこうとするこの意志の存在を視覚化できないからだ。「割に合わない」という言葉は、あえて不正に加担するしかない悲哀や、厳しいノルマも有能さや我慢強さゆえにこなしてしまう惰性によって生じる疲弊を示している。せめても「割に合う」労働条件を求める改善交渉が往々にして不毛に終わるように(不正が常態化した社会ではため息が承認にとってかわる)、最愛の人間を愛することはあらかじめ不可能となる(愛は未練の謂いに過ぎない)。ミロが夫の自殺のあと、最初に愛したかもしれない男が同性愛者だったのは象徴的である。
自由選択とはいつでも名ばかりで、ある共同体のなかで決められた規則や価値観に帰順することでしかないが、それを非難しても始まらない。すでに所属する場所に馴染んで役職が人格に取って代わった人間は「じゃあ辞めれば」と言い放ち、いつまでも居場所を定められない人間は「別のとこに行こうかな」とつぶやく。桐野夏生の逞しい主人公たちは、どちらの発言にも留まらずに通りすぎる。彼らのなしうる抵抗は、規則への順応がもたらす判断の放棄――そういうことになっているという事実は知っているが、その理由は知らない――とも、他人のルールに従うことも自分のルールに従うこともない受動的な人間の目的意識の欠如――そういうことは自分には合わないが、きっと居心地のいい場所が別にある――とも違った価値観の創出が可能かどうかを試すことにある。彼らの闘いは一様に孤独で、勝目がない。闘いは最初から共感されないことを前提にしている。生存本能は、ただおのれの取り分を確保することにのみ発揮されるが、続いて起こる突発的な出来事によって――それはたいてい自らの手で引き起こされるのだが、先を見通せない彼らにとっては決して望む形ではない――なすすべもなく奪われる。経験は蓄積されるが、同じような出来事はもう起こりえない。
 桐野の描く寄食者たちの論理は、『メタボラ』の場合三つの居住空間で展開される。「ルームシェア」、「ドミトリー」、「工場の寮」という集団生活の諸形態に誘い込まれるように住み着く寄食者たちの闘争は、ただ「より居心地のいい暮らしがしたい」という皮相であるがゆえに切実な欲求に支えられているのだが、その主張が声高に叫ばれることはない。なぜなら、あくまで彼らは寄食者であり、彼らの居住形態は、彼らだけが住んでいるわけではない空間で寝起きをする彼らにとって、固有の権利として保証され、許されたものではない以上、その主張はもっぱら妥協と忍耐と打算の複雑な混淆に帰さざるをえないからだ。日常生活における彼らの欲求は、その請求権をもたず、ただ褒美としてもらっているだけにすぎない。桐野の優れた資質が見られるのは、空間よりもそこを占有する人間のほうが多くなった環境で巻き起こる椅子取りゲームのような闘争の諸相に刻まれた、その徹底した「みみっちさ」を、まったく恐れることなく書き進める段階においてである。女ふたりがルームシェアをする2DKの部屋に、片方が男(それもふたり)を連れこんだことから始まる闘争は、それまでは「都合」や「我慢」の名のもとに抑圧されていた習慣の違いを明るみにさらけ出す。男を部屋に入れないという契約時のルールが破られたことによって、それまでは押しこめられていた双方の主張が一気に紛糾するのだが、それは非常に些細な細目――片方が買った牛乳をもう片方がこっそり飲んでいる(と片方が思っている)ことや、シャワーを浴びる長さは違うのに光熱費が折半であること――をめぐって争われるのだ。この「みみっちさ」に対する執着といってもいい桐野の一貫した姿勢には、その他の凡百の書き手たちが思わず尻ごみしてしまうがゆえに見過ごす重要な事実が関係しているのだが、「価値観の不一致」を生みだすささいな反目は、一般的に若い書き手には報われない主人公の穢れなさに対して誤解をもって応ずるしかない周囲の俗物への仮借のない批判へと転化し、老練な職業作家にとっては骨董をまえにした好事家のように平穏な日常を細やかに見つめる温かい視線へと照射され、そもそも終局的な破滅へといたる序章とは理解されえない。桐野の著作についてよくいわれる「まったく予測のつかない物語展開」は、人間がふたり集まれば顕在化する日常的な感覚の齟齬が生みだす「みみっちさ」が発端となっており、その自覚的な展開がいつから始まったかといえば、著者のインタビューから明示的にうかがえる『魂萌え!』ではなく、その五年前に刊行された『光源』からであると思われるが、重要なのは、「みみっちさ」は事件の発端ではありえても、事件の「伏線」ではないということだ。この違いを理解するためには、生活の細目にわたる価値観の違いが、隠しようもない現象であることを確認するだけでいい。共同生活をしている以上、それはあられもなく衆目のいたるところとなる。それは、初期の段階においては見過ごされるか、黙認されている。そして、見過ごされるか黙認される以上、隣にいる他人が我慢していようが気にしていなかろうが、当人には問題とされない。ということは、それは価値観という共通の土台すら持っていない、そもそも比較しようがない個人の領域の問題に過ぎないということになる。プライベートは確保され、飛び火しない。したがって、共同生活をしている以上、それが「ひっかかり」として個人の意識にのぼることはあったとしても、すぐに忘れ去られることだろう。どちらにしてもくだらない、ささいなことである。この「ひっかかり」が再び個人の意識にのぼるのは、生活空間のなかで(暗黙のうちにであれ)最初にお互いが定めた領分の線引きを、もう一度引きなおそうとする瞬間である。「ひっかかり」は、自分の領分を広めようとする人間にとっては、有利な交渉の材料となる。黙認が被害者意識を育て、我慢が担保になり、正当性は義侠心に鼓舞される。いずれにしても、対価は払われるべきである。桐野夏生の小説世界に登場する人物たちは、議論をせず、利害を主張する。議論は常識や新たなルールを生むが、利害はパワーバランスを変化させる。議論は役には立たないが、利害の主張は役に立つためになされる。こうして闘争は開始される――まったくの「みみっちさ」のもとに。いったん闘いの合図が鳴りわたると、利害の主張は水掛け論の様相を呈し、彼らが共同生活を送るいかなる理由も存在しなかったことが判明したあとも、言い分は譲られない。以前はうまくいっていた分割が反故にされ、殺伐とした疑心暗鬼が支配し、お互いの非を知り合った馴れ合いだけが人間を結びつける唯一の紐帯となる。当然のように、ただでさえ狭かった部屋は、どんどん狭くなる。はじめは何ほどでもなかった「みみっちさ」が、ホッブズの定式化したような万人の万人に対する闘争原理にまで昇華される。桐野夏生が描くのは、こうしてしかるべく土壌整備された空間でうごめく、人間の限りある欲望の諸相である。人々は、彼がそう思われていた人格が、実際には(観察者か当の本人の)欺瞞でしかなかったことをさらけ出し、だれもが本心を隠さなくなった世界では、共感はまったく役に立たなくなる。事実、共感という相互作用に含まれる暗黙の了解(期待される役柄を演じることで得られるかりそめの信頼関係)を桐野夏生ほどはぐらかしてみせる作家はいない。そのために、彼女は探偵小説の多くが陥ることになるキャラクター化を拒み、(サラ・パレツキーのV・I・ウォーショースキーシリーズが円満になし得たような)女探偵ミロの「幸福な」シリーズ化を果たすことがなかった。先の段で「みみっちさ」が事件の「伏線」ではないと断ったのは、「伏線」とは文字通り、人間の行動や性格の伏せられた一面のそれとない暗示となりうるのに対し、「みみっちさ」は、あくまで表層的であからさまな、裏返しようのない事態を問題にするからであり、桐野夏生の小説に救いがあるとしたら、彼女の小説に登場するありきたりな人物たちが、自己の欲望を知り、自己の欲望に忠実になるすべを知ったために「怪物」に近づく瞬間、人間関係が課す「役割」という呪縛からいっとき解放されて見えるからにほかならない。生まれ変わった彼らは他人の目には偽証や狂気と映るが、凪のような落ち着きに包まれた人間の目に宿るのは、澄み切った、自己自身にしか責を負わない強烈な義務感である。こうして桐野夏生は近代小説の伝統的な主題である「変身」を描くことになるが、数少ない例を除いて登場人物はことごとく「悪」に染められる。取りつくしまのない純粋さがその名を呼び寄せるのだ。彼らは自己自身を目的としているがゆえに、「悪」の存在となる。