2011-03-01から1ヶ月間の記事一覧

(その六十九) 佐伯米子

一九二三年の秋、渡航のために新橋にある米子の実家に預けていた荷物が震災で焼けだされた直後は、とうぶんのあいだは東京で不便をしのんでいるしかないと相談しあったものだった。多くの知人を亡くした。運よく住まいを失わなかったものもいたが、友人の何…

(その六十八) ベイヤード・サートリス

それからまた、そうした戦争帰還者の中に、ベイヤード・サートリスがいた。彼は一九一九年の春帰ってきて、見つけることのできる一番速い自動車を買い入れ、郡じゅうを乗り廻したり、メンフィスへいったりきたりして暮らしていたが、(われわれはだれもそう…

(その五十七) 安藤

明治のはじまりは、まだ、余勢があって、すもうの柏戸や、相模政五郎や、一中ぶしの家元の菅野序遊だとか、吉原の幇間の桜川なにがしだとかが、昔日通りに出入りし、もの日祝い日の催しには、はなをまきちらして、それを家の格式、繁栄のしるしとおもいこん…

(その五十六) ハイム・ナーゲル

ハイム・ナーゲル氏。ナーゲル氏の分別、忍耐、親切、勤勉、機知、頼りになる感じ。自分の領域であまりにも完璧に行動するので、他人からあの人たちは地上のあらゆる領域ですべてに成功するに違いないと思われる人びと。しかし彼らが自分の領域を越えないと…

(その五十五) P

Pは、ある死体から銀の貞操帯を鋸で切って外した。彼はルーマニアのどこかで、その死体を掘り出した人夫たちを押しのけ、自分が記念に欲しいと思うある貴重な小さなものがそこに見えると言って人夫たちをなだめ、帯を鋸で切ってあけ、骸骨から取り外したの…

(その五十四) ドリーナ

「あたしにはもう、若い男に目くばせをする娘までいるのですもの、そうじゃない?」 チェーザレ・パヴェーゼ『青春の絆――パヴェーゼ全集5』河島英昭訳 晶文社 一九七五年四月三〇日発行 158頁

(その六十七) ギャヴィン・スティーヴンズ

「はい」と彼女がいう。それは金のライターだったのさ。「あなたがこれを使いたがらないのは、知っているわ。だって、ライターでパイプに火をつけると、油のにおいがするって、いってたから」 「いや」と検事がいう。「わたしがいったのは、わたしにはそれが…

(その六十六) 野間三径

中学生は仇名をつけることの天才だ。うす菊面のある国語の教師には「かたぱん」、同級の月足らずのような少年には「血塊」、顔色の悪い黄ばんだ少年には「うんこ」、僕には、「こんにゃく」という仇名がつけられた。漢文の先生の野間三径には、「にせ聖人」…

(その六十五) 百田宗治

百田のことは、それまでにも富田の口からいつもきかされつづけていた。彼はまだ、故郷の大阪にいて、大鐙閣という本屋につとめながら、詩を書いていた。ストリンドベリーの研究をしていた藤森という男と二人で、雑誌を出していた。藤森が死んで、百田がいよ…

(その六十四) 鼻のぽん助

虹口辺で、中国人と合弁でハイヤー会社をやっている中尾という人物――この人物は、京都等持院の撮影所にいた頃の岡本潤の友人で、自称アナルシストの、地方の小ばくち打ちのあんちゃんのような人物であったが――から、謄写版の機械を借りてきて、一昼夜で書き…

(その六十三) 石丸婆さん

石丸婆さんは、鉄扉の内からの錠を外して、眼の前に立っている私たちをみると、しばらくは物を言えず、顔をながめていたあとで、 「あなたがた、どっから降って来よりましたか。この天気に」 と、雲のなかを雲が岐れてゆくうすぐもりの空を見あげた。婆さん…

(その六十二) 秋田義一

とやかく評判するものもあるが秋田義一は一風変った人物だった。 いやなことは聞かないふりをするというので、勝手つんぼという綽名もあり、また、耳シェンコとも言った。盲目のエロシェンコをもじったのだが、確かそれはサトウ・ハチローの命名だったようだ…

(その六十一) 佐藤惣之助

詩をつくりたがるようなこころのもろさが、詩をつくるよりしかたがないという、意のはげしさに居直るまでの長い時間に、手持ちの品は、おおかた手ばたかなければならなかった。それは、ただ動産、不動産の物件だけではない。僕のそばをすりぬけて、目の前で…

(その六十) 金子荘太郎(2)

僕じしんは、意味もなく放埓なくらしをつづけていた。街を歩いていても、ふと旅がしたくなればそのまま、当時まで女中一人を使って一つ家にいた養母などには知らせもせず、汽車に乗って、二晩でも三晩でも、時には一週間でも留守にした。岐阜大垣辺から、関…

(その六十) 金子荘太郎(1)

義父の家は、先祖代々江戸馬喰町で、庄内屋という旅館をやっていた。一町四方もある大きな旅館で、牢内から出たものの手当を命じられて、当主の半兵衛は、姓字帯刀をゆるされていた。徳川とおなじく十五代つづいて、義父の荘太郎が十六代目、僕がつげば十七…

(その五十九) 金子須美

親戚の女髪結いのもとにあずけられて、無心であそんでいた二歳の僕を、髪結いにきた女たちが、かわるがわる抱きあげてあやした。色が白く、骨なしのようにやわらかいそのあかん坊は、すでにバガボンドの素質をもっていたものか、抱くあいてが誰であっても気…

(その五十八) 加藤純之輔

差木地村には、加藤純之輔と、小山敬三がいた。春陽会の画家たちだった。加藤は詩も書いた。東京へかえってからも、加藤との交際がつづいた。芸術家気質で、自我の強い彼は、内という字のなかの字が人か入かということで、朝の十時から、夕方まで僕と議論し…

(その二十二) 孤独

一晩じゅうぼくはひとりでいた、そしてもう一晩そうして過ごさねばならないのかと思うとぼくの勇気はくじけた。ときどき、暗闇のなかで、ぼくはあらぬことを口走った。枕をしっかりと抱きしめて何か言った。そのとき考えたことは、もう何度も考えてしまった…

「ソクーロフ的振幅」とはなにか 『孤独な声』(1978=1987)

あるひとりの学生が提出した卒業制作の九巻フィルムが、居合わせた教授陣にこっぴどくけなされた。なかには上映十分で席を立つ教授もいて、追従者があわててあとを追ったほどだった。制作にかかわった学生たちは抗議の声を上げただけでなく、フィルムをあら…

(その二十一) 退屈

きのう、ぼくたちのうしろで一人の男が退屈のあまり座席から落ちた。 フランツ・カフカ『カフカ全集7 日記(一九一二年五月二三日の記述)』谷口茂訳 新潮社 一九八一年一〇月ニ〇日発行 201頁

(その二十) 視線

部長がぼくと事務のことで相談する場合(今日はカードの整理箱についての相談だった)、ぼくは、自分の視線か彼の視線かのどちらかを押しのける軽い皮肉が、いやいやながらでも自分の目のなかへ入ってこないと、部長の目をあまり長く見ていられない。彼の視…

(その十九) 昂進

ぼくはいつもより神経質になり、そして意気地がなくなり、数年前自慢していた落ち着きの大部分を失ってしまった。今日バウムから、どうしても東ユダヤ人の夕べの集いの司会役をやることができないと書いた葉書をもらい、それでは自分が一件を引き受けねばな…

(その十八) 感動

ヴェルフェル(カフカより七歳年少の早熟詩人。当時まだプラーク大学の学生だった)の詩のせいで、ぼくの頭は、きのうの午前中ずっとまるで蒸気でいっぱいになったような具合だった。一瞬ぼくは、感動がぼくをさらってまっすぐ無意味の底まで連れて行きはし…

(その十七) 割礼

今日の午前、ぼくの甥の割礼があった。がに股の小男のアウステルリッツは、もう二千八百回も割礼を行っており、処置が非常に上手だった。それは一種の手術だったが、幼児が手術台の上ではなくて祖父の膝の上に乗せられること、さらに手術者はよく気をつける…

(その十六) 握手

ゆうべ、ぼくはマリーエン小路のぼくの義姉妹に、同時に両手で握手した。まるでそれが二つとも右手で、そしてぼくが二重人格であるかのように器用に。 フランツ・カフカ『カフカ全集7 日記(一九一一年一〇月十九日の記述)』谷口茂訳 新潮社 一九八一年一…

(その十五) いつもよりましな自意識

いつもよりましな自意識。心臓の鼓動は、ぼくのさまざまな望みをいつもよりよく叶えてくれそうな打ち方だ。ぼくの頭上のガス燈のシュウシュウ鳴る音。 フランツ・カフカ『カフカ全集7 日記(一九一二年ニ月二六日の記述)』谷口茂訳 新潮社 一九八一年一〇…

不在の演出家 北野武『アウトレイジ』(2010)  

長らくフェリーニ病を患っていたという北野武監督が、十年の歳月を経てヤクザ映画に復帰する。おそらくこの見出しは、現時点での最新作である『アウトレイジ』(2010)の紹介としては、いささか不十分であることは否めないだろう。最初に説明しておくと…

(その十四) 共有

電車に乗り座席について、ふと見上げると、眉毛を抜いている男がいた。長髪で、ヴィトンの手提げかばんを太ももの脇に置き、一心に鏡を見つめていた。電車のゆれで立てかけたかばんが倒れると、ふさがった手を伸ばすに伸ばせず膝を硬くすり合わせた。鏡の自…

(その十三)  いたわり

商店街でみかけた親子。母親は、右の足を怪我していて、包帯を巻いた片方だけがサンダル履きだった。彼女は疲弊しており、背中を丸め、ふたつの松葉杖をよろよろつきながら、あごを突き出し息をついた。その左側にいる十二、三歳の息子は、いたわるようにぴ…

(その五十三) ユーラ・ヴァーナー

彼は忙しくても平気だったんだ。だって、満足し、幸福だったからな。彼にはもうなに一つ心配ごとはなかったから。ユーラはもうだれの手にも届かないところへいってしまったんで、マッキャロンとかド・スペインとかいう名前の別の男がまた現われるかも知れな…