2013-01-01から1ヶ月間の記事一覧

(その百二)ニコラス・テメルコフ

彼は列車でトロントに向かった。彼の村の人間が大勢いて、見知らぬ者の中に入らずにすんだ。でも、仕事がなかった。それで北へ向かう列車でサドベリーの近くのカパークリフに行き、そこのマケドニア・パン屋で働いた。食事と宿付きで月に七ドルもらった。六…

(その百一)ダニエル・ストヤノフ

北アメリカへの移住の道を明るくする出来事は、トーキー映画の出現だ。サイレント映画は、娯楽以外には何ももたらさない。顔にぶつけられるパイ、百貨店から熊に引きずりだされるしゃれ男――すべての出来事が言語と議論ではなく、運命とタイミングによって決…

(その百)不適合者

この男は敏腕ではなかった。かれの周辺では何もかもがうまくゆかず、かれは自信をもてなかった。アパートからは幾度も追い立てを喰い、借金で首が廻らなかった。住居が二重に人手に渡ったくらいでは、まだそこにへばりついていた。しかし、しょっちゅうの引…

開眼

映画の撮影において、役者の開眼がいかに重要な要素かはひと言では語り尽くすことができない。主演を張るような役者にかぎっていうと――かれらの多くは傲慢で、鏡を眺めた時間がだれよりも長いという理由だけで被写体としての自己を絶対視するし、かといって…

(その四十八)遺言

作家のサマセット・モームは、「人を死に至らしめるのは記憶の重みである」という意味の言葉を残して自殺した。九一歳だった。遺言をしたためた便箋は、インクをよく渇かしてから、ふだんそうしていたようにきれいな四つ折りにたたまれた。かれは、書きかけ…

(その四十七)アルバム

その子はアルバムのページをめくるのが大好きだ。どれほど輪郭がぼやけていても、いつも母親を大勢のなかから見つけだせる。写真のなかの、恥ずかしがり屋で過剰に自己防御する表情のなかに、彼は自分自身の女性ヴァージョンを認める。そのアルバムのなかで…

(その五)社会復帰プログラムの専門家

ルーリオがアパートメントにひとりでいたとき、フリッツが帰宅した。 「買い物に出かけています」とルーリオは大男の質問に答えた。「お帰りなさい、リースさん。よかった。やっとお目にかかれて」 「フリッツだ」とフリッツは呼び名を指示した。「すっかり…

(その四)山師

少なくなってきた家産を盛り返すために、鉱山に手を出した。カーキ色コールテンの猟服をつくって、腰に鳶口の子供のような石割をぶらさげ、売りかたの技師に案内されて、群馬や福島の境の山また山をみてあるいた。三日で二十五里も歩いてへとへとになりなが…

(その三)上海の苦力

上海の苦力たちは、寧波あたりから出てきた出稼ぎの細民で、なかには、倒産しかけた一家を助けるため、資金稼ぎに出てきている商人くずれなどもいる。師走前には、梶棒をすてて、裸のからだに泥を塗って、強盗を働くものもあり、青幇党の杯をもらって、ばく…

(その二)出稼ぎ者

出稼ぎ労働者はふつう、出稼ぎ農民と同義語としてうけとられている。六〇年をひとつのさかいとして、農民は都会の工事現場や工場での最底辺労働者となってはたらくようになった。村からでてきた理由は、それぞれさまざまで、そのさまざまな理由によって、出…

(その一)シチョウ

ふと見ると、細面の、スッキリとしたいい女が人込みの中に立って、あっちこっちを心もとなげに見まわしていた。そのただならぬ様子に釣られて、一人立ち二人立ち、彼女のまわりに次第に人垣を作って行った。彼もその一人だった。 若いのに、櫛巻に結って、年…

(その四十六)仕込み

小沢 世話講談というものは、話にあまり偉い人が出てこないのが特徴ですよね。 神田 出ないです。庶民が主人公ですから。 小沢 たとえば『小猿七之助』はばくちから始まりますし、とにかく悪さをするような人が主人公になっている。 神田 二宮尊徳は出てこな…