(その八)眼

 自分の車をローリンソンの家の隣に停め、こわれた踏み段につまずきながら、不安な気持でヴェランダに上がった。
 ミセズ・シェパードがドアをあけ、唇に指をあてた。目が非常に不安そうであった。
「一分ほど、お話をしたいのだが?」
「今はだめです。忙しいので」
「わざわざパシフィック・ポイントからやってきたんですがね」
 その言葉に興味をかきたてられたようであった。目で私の顔を捉えたまま、玄関のドアを後ろ手で静かに閉め、ヴェランダに出た。
「パシフィック・ポイントで、なにが起きているのですか?」
 さりげない質問のようであったが、詳細にたずねることをはばかっての質問なのであろう。今は年のまま、絶望的な不安感に包まれた若い頃に、とつぜん立ち返ったような印象を受けた。
「相変わらずのことです」私が言った。「みんなにとっての災難。それも、すべて、これから始まっている、と私は思う」
 私がシドニイ・ハロウから取り上げた、ニックの卒業写真を見せた。彼女は見ながら首を振った――
「誰だか、知らないわ」
「たしかに?」
「たしかに」重々しい口調で言い足した。「私はその若者を、一度として見たことはありません」
 もう少しで彼女の言葉を信じるところだった。しかし、彼女は、写真の主は誰なのか、ときかなかった。
「名前は、ニック・マーシャーズです。これは彼の卒業写真ということになっていますが、彼は卒業していません」
 彼女は、「なぜ?」と、口に出しては言わなかった。しかし、目が言った。
「ニックは、自殺未遂から回復するため、病院に入っています。さきほどもいったように、災厄は、シドニイ・ハロウという男がやってきて、ニックを追い廻し始めたところから始まりました。その男が、この写真を持っていたのです」
          ロス・マクドナルド『別れの顔』菊池光訳 早川書房192〜193頁