(その十一) 吐息

 その男は、まだ二十をいくらか越えたばかりだというのに、前髪が後退しつつある事実を、セットしたことなどまるでない毛先の乱れによってことさらに誇張していた。鼻先が高く、穏やかな二重まぶたの下に宿した栗色の瞳は、ものごとをあるがままに受け入れる度量の深さと、ものごとに付される他人の解釈をまったく疑わない愚鈍さを同時に示していた。彼に命令を下したある者は、そのあまりに純真な瞳に心を打たれて、彼が自分のしゃべった言語を本当に理解できたのかどうか――というのも、その命令は理不尽なくらい過酷なものだったから――わからなかったし、急場でこしらえた命令がなんだったのかも忘れてしまう始末だった。場当たり的な命令の際限のない遂行が彼の仕事現場では横行していたため、彼が実際に命令を飲み込み事に当たっているのかどうかを確かめようとする者はいなかった。湯気を立てるラーメンを渡し、これを三丁目の林さんに届けてくれ、といえば、彼は今までしていた仕事を放り出して立派な出前持ちになったかもしれないし、ついでに商店街から林さん宅までの道を調べてくれ、といえば、彼は立派な測量技師になっていたのかもしれない。いずれにせよ、彼は言われたことはいつの間にかし終えているのだから。だが、彼が何かを終えたというひと言を発することはなかった。ただ、決して迅速というわけではないにせよ、ともかくも終えていて、気がつくと彼はあの穏やかな瞳をたたえて、別の上司から別の命令を受けているのだった。彼はその人柄を見込んで何かを期待されることがなかった。いわば組織の末端にいる彼は、だれにでもできることがら、命令するものですら時に鼻白む思いを隠せず、ただだれかがそれをやらねばならないという理由だけで下されるさまざまな命令を割り振られた。彼には区切りというものがなく、定刻には必ず姿を消すという律儀さだけがかろうじて彼の存在を引き立てていた。だれも彼がどのような関心を持ってこの世界に生きながらえているのかとんと見当がつかなかったが、注意深く眺めていると、定期的に息を洩らしていることが判明した。生きている以上それは当り前なのだが、耳を澄ますと、呼吸とは異なるリズムで、なにか音声以前のささやきが、決してよくない歯並びのあいだから漏れ出していることが知れた。四人くらいでする会話では、話題にはとびつかずにさまざまなうなずきによって彩を加える人員が必ずいるものだが、彼はまさしくそれで、しかも特異なことには、彼はまったくだれとも会話をしていないときですら、その音声以前のうなずきを定期的に繰り返していたのだった。それはまったく悩ましげな調子のないため息にも聞こえたし、孤独を欠点にしないための、つまり内側に溜めすぎてしまわないためのある種の排泄作用にも見えたし、ある状況を解決するために推論を重ねた結果すべての案件が実行不可能だと判明したときの心地のよい敗北感をにじませた断念にも感じられた。それはなにか、途方もなく無害なもの、清らかでそっと触れなければすぐ傷ついてしまうもの、あるいは罪なきものへの許し、この殺伐とした世界では騒音にしか聞こえない穏やかさといった印象を与えた。だが、結局は思い過ごしかもしれなかった。彼の内面がいかに複雑な機構を備えていようと、それに気づくものはいなかったし、本人がだれよりも先に気づくということもなさそうだ、と周囲の者は思い込んですらいた。だから、命令を与えた者たちは、今自分がすべきことは分かってる? と、慈善心と軽蔑を交えて彼に聞く。彼はただ黙して語らず、穏やかな栗色の瞳を一心に相手にぶつけながら、なにとも知れぬ、あの奇妙な吐息を唇のあいだからそっと吹き込むのだった。