(その六) 手

彼が言うと、男は顔を両手でおさえ、泣きはじめたのだった。男の小さな華奢な肩がふるえていた。ふっと、思った。いや、手が思うよりも先にのびていた。男は、顔をあげた。驚き、おそれた。おびえた。涙をためた眼が、大きくひらいた。救けて下され、見逃して下され、せっかくこれから里の村で、苦労をかけた女房と二人で、つましく生きていこうとしているのに、男は、そう言っていた。力をこめた。男は、ふるえた。彼は、男の骨の細い首にかかった自分の手が、いかついて大きく、すり傷だらけで、垢で黒いのを知った。その金が欲しい。いや、金などではない、一ヶ月が半年にのび、それでもなおかつ帰る所のある、その場所、その女、その主を恋い狂う気持ちが欲しい。彼は、さらに力を加えた。男は、死んだ。郭公が、峠の下方で鳴いていた。誰もいなかった。しかし、誰かがみている気がした。男の衣服をはぎ、財布を取った。肩にかついでいた柳ごうりの中から、男が女に買ってきた着物、かんざしを出した。かんざしは、ふところに入れた。着物はどうしようかと思った。ふんどしひとつにされて転がっている男が、女の機嫌を取るために買ったものだ。甘いにおいのする気がした。ふっと、おかしくなった。被慈利の彼が、赤い女の着物を持っている。座り込んだ。彼は、頭から着物をかぶり込んだ。矢も楯もたまらず、彼は、この着物をきるはずだった女を想い、自涜した。赤い着物でぬぐった。そして思いついて、女の着物も男の着物も、ふんどしひとつの土気た男も、峠から下に放り投げた。郭公が、まだ鳴いていた。慈悲深い仏も神もこの世にいるなら、むごく殺された男を哀れんで、雨を降らせ、雪を降らせ、その上に木の葉をつもらせ、跡かたなく消してくれる。
確かに跡かたなく消えたはずだった。だが、女は、かんづいていた。ただ、問い返しはしなかった。かんざし、財布、それを彼が持っていると知った時の、驚きようはなかった。彼は、取りつくろった。山中で、かわいそうに、男が、病気で倒れ込んでいた。かんざしと財布をあずけ、里に降りて行ったら、半年食うことも飲むことも耐えてたくわえた金だ、女に渡してくれ、と息を引き取った。人の生命の果てる時に立ち合うも修業の者の務、きっと願いをかなえると、男を安心させ、ねんごろに葬った、「知っておるか、その女?」彼は訊いた。女は首をふった。
     中上健次「穢土」『中上健次全集第三巻』集英社68〜69頁