(その六十二)徘徊

 商店街を徘徊する小柄な老婆の姿が見られるようになったのは、去年の夏ごろからだった。老婆は輸入雑貨が店内にところ狭しと置かれた店内に入ると、ここが板土間だったころから知っていると言わんばかりに奥の帳場に押し掛け、紫色に髪を染めた店員に気安く声をかけた。マホガニーの棚には品物をいれる平皿が並べられ、色とりどりのタイルや鋳鉄のドアフック、マッチ、香油、鍵が盛られていた。対面の壁にはところどころに釘が打ちつけられて、ホーローのマグカップやキーホルダーがぶら下がっている。その下のショーケースの中には光をことさら反射するようなガラス製品が鎮座し、フットライトとランプシェードの明かりでぎらぎら光っていた。天井に近い壁には、もはや動くかどうかもわからない壁掛け時計が雑貨類とは桁が3つか4つほどちがう値札の上に鎮座していた。さらに足元には写真用のメッキがはげた額縁がずらりと立てかけられていたので、狭い通路をすれちがうにも気をつかった。その輸入雑貨店は、見事に9のようなかたちをしていた。入り口が9の真下にあり、帳場があるのは一番奥、つまり9のてっぺんのあたりである。そのため、9の上の部分にしげしげとタイルの品定めする客がいたとしても、うまくまわりこみさえすればだれともすれ違わずに帳場にたどりついて会計を済ますこともできたし、だれもいなければぐるりと帳場のまえを通り過ぎてそのまま帰ることもできた。しかしながら、いつまでも長居をつづける老婆を放っておくわけにはいかなかった。店員は手慣れたようすで老婆を外に連れ出し、客の通れるスペースを確保した。この作業は、多いときで一日に15回はくり返された。老婆はいつでも新鮮な気持ちで、初めてそこに入ったという風に、「いつからお店を始めたの?」と聞いた。老婆は9の入り口に入るといつでもそれを聞きたいと思っていたのだ。ほんの挨拶のついでに。
 紫色に髪を染めた店員は、品揃えの珍しさから店に入ってくる客こそ絶えなかったが興味本位の目線を投げかけるだけで帳場にいる自分の前を通り過ぎてゆく無慈悲な客の横顔に飽き飽きしていたので、日ごとに繰り返される老婆との会話に気晴らしのつもりで引受けていた。
「いつからお店を始めたの?」
 そんな風に、老婆は何度も訊ねてきた。

(その六十一)撮影段取表

 ゴダールは彼のおおかたの撮影の際に好んで、撮影段取表を考察すべき引用文で締めくくったものだった。そしてときには、その引用文のいくつかが結局はその映画それ自体のなかで見つけ出されたり、また別のいくつかは数年後に、それどころか数十年後に、映画作家の口から出るなり映画に登場するなりしたものだった。この映画作家は引用の慣習を大いに刷新しながら、年を追うごとに、引用を自分の詩法の重要な部分につくりあげてきたのである。なお、それらの引用文の前には毎日、《スタッフ全員のためのメモ》というおきまりの言葉が添えられている。


アラン・ベルガラ『六〇年代ゴダール』奥村昭夫訳 筑摩書房 リュミエール叢書38 一九九八年六月25日発行 四三四頁

(その六十)積夜具

 ふたりが出会ったのは、茶屋の前に夜具がたくさん積まれた布団のなかだった。
 男の名は仁吉といい、冷やかしの最中に素人の小娘を見初めてむらっ気を起こした。
 仁吉はとくにいい男ではなかったが、通った鼻筋に涼しい目許をしていた。鬢を撫でつける仕草に独特の色気があって、女を喜ばせる文句や素振りにも事欠かなかった。もし育ちがよければ茶屋の上でちやほやされることもあったであろうが、格子のすきまから女たちが憎からぬ視線を投げ返してくることで自信を得た仁吉は、一張羅の着流しの襟元を汚さないように、すこし猫背になりながら大通りを歩いた。手許には、女を見かけたのはそのときだった。
 女は茶屋に鯛を届けにきた八百屋の娘で、素人の分際でなぜ吉原のなかにのこのこ入ってきたのか大門の門衛も怪しんだが、いつも大尽の祝儀で金がうなっている茶屋の証書も持っていたので、門戸をくぐることができたのだ。娘が襲われるまでに時間はかからなかった。むしろ、すすんであかぎれののぞくぽっちゃりした手で仁吉を誘ったのかもしれない。
 娘の父は道楽で身を持ち崩した商家の次男坊で、婿入りも決まって婚礼の日取りも決まったある日、馴染みの女郎と東京湾に身投げしたが、ひとりだけウミガメの背なに乗って浜まで打ち寄せられたのだった。立派な紋のついた袴の胸元には鯛やミズダコが、袂にはアサリとワカメがうようよしており、救助にかけつけた若い衆が恐れをなして海幸彦の末裔とあがめ奉ったことから、家を勘当されたものの魚の目利きとなって今の商売につくことができた。失ったものもあった。浜に流れ着いてから、かつての放蕩児はいっさいの性欲を失っていた。そのため、先の若い衆から譲り受けた娘を大事に育て、いずれは娘がどこかの男をたぶらかす寝姿を覗き見て、無聊を慰めようと思っていた。娘には、三歳のときからハタハタの卵とクジラのひげとたこの吸盤と椿油でつくった香油を髪に馴染ませ、平仲の逸話に名高い丁字の香と小水を薫きしめた服を着させた。乳母たちは、その過激な匂いに食傷を起こして数日でいなくなった。父は香油の精製にいそしみ、暗い土倉のなかでさらなる香りの探求に励んだ。それだけでは飽き足らず、父は、若い女をおだてて商売を成功させた最初の上方商人から上等な鼈甲の櫛を手に入れ、娘の美しい黒髪を梳かしながら、自らの愉しみを満たす日をうっとりと思い浮かべた。当然生活は楽ではなく、収入のほとんどは娘の養育費に消え、下谷の裏長屋で赤貧の暮らしを送っていた。娘は名を揺葉と名づけられた。揺葉は、色とりどりの春画と張型に囲まれてすくすくと育った。
 揺葉を送った茶屋は、謹厳で容赦のない仕事ぶりの番頭たちに、インポテンツを確実に治せる趣向を凝らした店として知られ、金さえ払えばどんなことでもしてくれたが、いかんせん荒療治のために死人も絶えなかった。両手両足を失って日がな一日にたにた笑っている金無村の木蓮寺に潜む鼻のこそげ落ちた乞食も、もとはここの上客だという噂だった。揺葉の父親の欲求は、自然とそこに向いた。
 そんな父から生まれた娘がろくな女に育つはずもなかった。別にはっきりとした計画もなく、要するにたんに気が向いたというだけで、揺葉は父から仰せつかって鯛を届けに行くついでに、すでに三人の男と関係を持った。仁吉に誘われたときは、これを今日の最後の男と思うはずもなく、どこかでもう一人くらいひっかけられるかきょろきょろしながら夜具のなかに誘い込まれていったのだ。
 錦の夜具はたたまれた二枚の布団にきれいに置かれ、うずたかく積まれていた。仁吉と揺葉が潜りこむと、いちばんてっぺんの、まだ誰の袖も通していない高価な夜具が布団もろとも崩れたが、気にするものはだれもいなかった。仁吉は揺葉の頭に鼻を近づけて初めてぞっとする香油の匂いに気づいた。男たちのむさい吐息で香油は揮発し、さらにおぞましい匂いを放っていたのだ。
 揺葉は、布団にくるまれて初めて肉体的な疲労に気づき、ものうげな表情で自分にのしかかる男を見ていた。そして、疲労は最初すべての感覚を鈍くしたが、次第にひとつの感覚だけをゆっくりと、しかし強靭に研ぎすましていった。揺葉は怯えた。これまで感じたことのない感覚だった。それは痛みだった。
 揺葉は動揺した。というのも、それまで快感は、どちらかというと退屈をともなうものだったからだ。
 痛みは、重い布団のなかで蠕動運動を繰り返すごとにひどくなり、やがて耐えがたくなっていった。
 それは揺葉の父がしくんだ罠だった。父親は、魚介類をふんだんに使った香油の精製の過程で偶然猛毒を作り上げることに成功した。アルセノベタインやメチルアルソニウムを副成分とするその特別な香油を、朝の行水のあとたっぷりと娘の髪の毛に塗りこんでいたのだ。
 当然のように、娘が手をつけた三人の男との交情も、父はしっかり目撃していた。香油の効き目は思っていたほどなく、一人目の男があぜ道から転げ落ち、二人目の男は松の木の下で目覚めたあと筵をかきむしりながら嘔吐しただけだった。父はがっかりしながら揺葉につづいて大門をくぐり、追いかけて来た門衛の手に残ったはした金を握らせた。
 ようやく四人目の仁吉で――父はヒ素の効能を検分しているうちに娘の袖を引いた三人目の親爺との火遊びを見逃していた。それを知らなかったのは不幸だった、なぜなら、若い女の鬢付油の匂いを嗅ぐのに眼がないその親爺はすで絶命していたからだ――効果が表れたらしいことを知ると、父はいてもたってもいられなくなって、夜具のまわりを旋回しはじめた。冷やかしの客が積夜具のなかから聞こえてくる断続的な悲鳴に気づいたのはそのころだった。錦の上等な夜具が崩れて土にまみれ、酒樽がちゃぷちゃぷ波立ち、花輪の真っ白い山百合がしおれて花を落とした。喧噪に浮かれた表情をしていた男たちも、異常に気づいた。
 布団のなかでは、ふたりの男女がもみ合っていた。
 痛みの感覚は、すでにお互いに伝播していた。もし、互いに離れることでいくぶんかは激痛が鎮まることを知っていたら、仁吉と揺葉は互いの脇腹を蹴飛ばしあっただろう。しかし、二人ともそうはしなかった。背なは爪痕がきつく刻まれ、キンポウゲの黄色い花にかぶれたように、赤い斑点の浮いた肌がこすれあった。
「こんなことは初めてだわ。はっきり言って」
 揺葉は、父のさまざまな開発につき合っていたので、痛みの感覚には慣れていた。つまり、いくぶんかは内省的な気構えを保ちながら、痛みの実体と肉体を分離する作業に取りかかっていた。揺葉は独り言をつぶやき、仁吉の膚が食い込んだ爪をひと舐めした。塩辛い味しかしなかった。とすれば、そこには痛みの根元はない。
「つづけざまに三度。それも、休まずに」と揺葉はつぶやいたが、ほかの原因を探すには痛みがひどかった。それは頭痛にまぎれて、しかし、頭の芯ではない別のところから彼女に襲いかかってきた。
 仁吉は、行為を止めることができなかった。おそらくは、快感のためというよりは、自尊心のために。襲った手前途中でくじけるのは、自分の性衝動に対して忠実ではない。だが、結局のところ、それは惰性でしかなかった。というのも、彼の一物はもうほとんど用をなしていなかったからだ。
 仁吉は、三つ折りにし布団と布団の隙間で大きく息を吸った。途端に咳き込み、昼間のものを残らず吐き出した。
 仁吉に優しさがなければ、揺葉はかぶろうとは思っていなかったものをかぶっていたところだろう。彼の嘔吐は絹の夜具が吸い込んだ。
 横様に首をかしげ、肩のなめらかな部分にちょこんとあごを乗せるような案配で、揺葉は布団のあいだから夜気の漏れる方向に目を転じた。その頃には、中毒症状の末期で、揺葉の眼はかすんで、ほとんど見えていなかった。腰を揺する動きに合わせて、提灯の明かりが霞の奥から差し込んだ。
 揺葉は懐かしいような気持ちになった。この光景をなんども見たような気がしていた。そして、揺葉はひと言口にするのだ。そのことばはもうわかっている。しかし、口にしようとしても、喉から出るのはぴーぴー声ばかりだ。
 仁吉はもう、最後の空気を肺に収めたまま、動かなかった。
 茶屋の前で蠕動する布団の動きが止まった。冷やかしの客たちが、崩れた夜具を取り囲んだ。遠巻きにして、なにかが襲いかかって来ても隣客を盾にできるくらい寄り添って。
 相生の松に金鵄をあしらった、ごてごての夜具の隙間から、揺葉の腕が伸びていた。
 父はその手を抱き寄せ、自らの頬に押し当てた。
 父には、揺葉がしゃべろうとした最期のひと言も、優男風の風情の若衆が溜め込んだまま吐き出さなかった肺の空気まで、なにもかもがよくわかっていた。
 夜具のまわりで、誰もなにも言わなかった。涙を拭う音に経緯を表して。茶屋の主人ですら、番所には通報しなかった。こちらはただ、遊びの世界の秩序を守るために。やがて胸元に腕を入れた男たちがやって来て、生きている者と死んでいる者との世界に線を引いていった。作業は迅速だった。愛人たちの突飛な行為で夜が始まることはままあることだったし、まだ宵の口で、吉原の稼ぎはこれからなのだ。

(その五十九)ハンカチーフ

父親の愛はとても近かった。幼いセアラを抱きすくめ、その肌触りを愉しみ、一心に眼をのぞきこんだ。床について寝しなのおとぎ話を聞かせてくれるときは、必ずからだのどこかをやさしくなぜてくれた。セアラにとって、父の熱心な愛の行為は、ある意味で近すぎた。それは、気を休めさせてはくれなかった。父は、いつでもセアラを手の届く場所に留めたがったが、セアラは父を観察するほうが好きだった。ひどく優雅な手つきで客人に茶を振舞う父は、セアラをいつもうっとりさせた。セアラの姿が見えなくなって、庭先でひどく狼狽したようすの父を見届けてから、その興奮を長続きさせるためだけに裏庭の林のなかに隠れた。セアラの瞳の奥には、いつもの悠揚な父が取り乱し、髪の毛をかきむしり、右へ左へとむなしくあごを突き出す姿が浮かぶようだった。ある日、父親がウイリアムワーズワースやド・クインシーといっしょに談話していたとき、セアラは父親のジャケットの胸ポケットからのぞくハンカチーフを目にした。その絹のハンカチーフは、波立つように折りたたまれ、いつでも父親の指先からつまみだされそうな存在感をかもしながら、いつまでも形をくずさずポケットのなかに留まっていた。セアラはそのハンカチがすごく気になった。ぱっと取り出したら、父親はどんな反応をするだろうか。セアラがそう考えた途端、思わず口もとがゆるんでしまったが、父親はワインのなくなったデカンタをふりふり、どこかへ行ってしまった。セアラはそのまま大人たちの会話の中途半端な聞き役に駆り出され、ハンカチーフを抜き取ることができなくなってしまった。セアラはそのハンカチーフのことをずっとあとまで忘れずにいた。なぜなら、あの真っ白な絹のハンカチーフが父親の胸ポケットに差し込まれていたのはその晩餐のときだけだったし、それから父はどこかへ行ってしまったまま、帰ってこなかったからだ。その三週間は、永遠にも感じられた。両脇にお土産を抱えて父親が帰ってきたときも、胸ポケットがぺしゃんこのままだったのには、ひどくがっかりさせられたものだった。

(その百三十四)花井お梅

毒婦花井お梅。美貌と気っ風の良さで知られたお梅は、芸妓として名を挙げ、浜町2丁目に待合茶屋「酔月楼」を開いた。茶屋の名義鑑札人である父親の花井専之助は、士族の商法を地で行く下級武士で、縁故も商才もないまま放漫経営をつづけた。お梅は大げんかの末に店を飛び出し、憂さ晴らしに歌舞伎役者の4代目沢村源之助に入れあげた。この関係は長くはつづかなかった。貢ぎ物として贈った着物の扱いがきっかけで刀傷沙汰の騒ぎとなり、源之助の付き人をしていた八杉峰吉ともども追い出されて、元の芸者にもどった。お梅は峰吉を箱屋として雇ったが、峰吉は三味線を運ぶだけの仕事に飽き足らず、専之助に茶屋の経営に関して注進するばかりか、裏ではお梅の悪口をふれ回っていたという。明治21年の6月9日、峰吉に呼び出されたお梅は、雨の降りしきるなか揉み合ううちに峰吉を刺し殺した。凶器となったのは出刃包丁で、お梅が持参したものとも現場付近におあつらえ向きにも落ちていたものともいう。お梅は長い拘留と裁判闘争のすえに正当防衛が認められて出所した。事件から実に15年後のことだった。その後のお梅の生活は、拘留中にさまざまな実録物に色どられた毒婦の現物をひと目見ようとする野次馬に追い立てられ、浅草千束町に開いた汁粉屋も神田連雀町に開いた洋食屋も長続きはしなかった。客商売がうまくいかないお梅はついに決心して、自らを売り出すことにした。芸はあるが演じたことなどないお梅は、旅芸人の一座に加わった。彼女の唯一の当り役は、「毒婦花井お梅」を主役で演じることであった。この奇を衒った演出の人気は、しかし長続きはしなかった。その原因はいくつか考えられるだろうが、おそらくその凶行の場面は、実際にそれをした本人が演じても迫真性を増すことがなかったのだろう。あるいは、なんども過去の自身の行いを繰り返すことに、彼女自身が飽いてしまったのかもしれない。劇中では、八杉峰吉は殺されて当然の男のように描かれていたが、彼女の記憶にはそうした否定的な側面ばかりを見つめるにはあまりに生々しすぎたし、15年という時間の経過は必ずしも忘却ばかりを彼女に差し出したわけでもなかった。花井お梅は晩年四谷の貧民街に身を落し、肺炎で亡くなった。

(その五十九)空襲警報

 四月十八日、土曜日。
 授業は終ったが、すぐに家に帰る気にはならない。ランドセルを放り出して、校庭の隅のジャングルジムに登った。隅田川を上下する舟がよく見えた。
 大川の向うで、間の抜けたサイレンが鳴った。本所あたりの工場の昼休みだろう。何かの訓練か、やたらにサイレンが多い。
 が、無視していいものかとも思い、ジャングルジムの上の私たちは顔を見合わせた。ぱん、ぱん、と気の抜けた音がしても、なんだかわからなかった。
「高射砲が鳴っているのがわからんのか! 本物の空襲だ。すぐに家に帰れ!」
 用務員がメガフォンで怒鳴った。あわてて飛びおり、ランドセルを片手でつかんで、家に逃げ帰った。
 店に着いたものの、だれもあわてていない。空襲なのかどうかも不明である。やがて、空襲警報、警戒警報、ともに解除になった。
 その夜、眠っていると、母にゆり起された。何がおこったのかわからぬまま、二階の押入れに入れられた。弟もいたと思う。なぜ地下室へ行かず、二階にいるのかが理解できない。ゴムの不愉快な匂いのする防毒マスクをかぶせられた。
 サイレンが鳴り響いた。爆風で鼓膜が破れるのを防ぐため、耳に脱脂綿をつめる。とうとう来たか、と私は思った。
 どのくらい経ったか覚えていない。記録によれば、午前四時ごろ警報解除になったようである。
 被害や死者の詳細が発表されなかったため、〈帝都初空襲〉の緊張感はほとんどなかった。牛込区で子供が殺されたという噂があったが、すぐに消された。米機は大したことはない、と私たちは思った。真珠湾攻撃の四ヵ月後の報復とは気づかずに。


小林信彦日本橋バビロン』文藝春秋社 二〇〇七年九月一五日発行 一六〇〜一六二頁

(前編)だれもだまされてはいない 松本人志『R100』(2013)

『R100』(2013)は映画である。だから、われわれは決してだれもだまされてはいない。
「ビジュアルバム」や「寸止め海峡」の世界観を映画館で再体験できるという期待に胸を膨らませ、先の三度の裏切りにも関わらず未だに諦めきれない「松本信者」特有の腑に落ちない態度はもう止めよう。第一作『大日本人』(2007)にダウンタウン特有の楽屋落ちすれすれなモキュメンタリー気質の確かな痕跡を発見したのに小躍りして、『しんぼる』(2009)には対決&罰ゲームシリーズの「チキチキ 第1回 ガキの使いやあらへんで!! 落ちれば地獄が待っている! タライアン・ルーレット対決〜!」(もちろん、視覚上の類似でいえば「ビリビリコンセント」も忘れてはならない)、出演者目録を見るまでもなく『さや侍』(2011)には「働くおっさん劇場」のまだ陽の昇らない早朝に見たテレビの残像をあてがったはいいものの、『R100』には対応物が見つからないのに腹を立て、唯一可能性のある年末特番の「笑ってはいけない」シリーズを思い浮かべてみたのはいいものの、テレビの前ではいざ知らず肝腎の劇場ではそれほど笑えないのはなぜなのかと暗闇のなかで疑心暗鬼の自問自答をつづけるのはもう止めよう。またもや登場した寿司ネタから、サスケ→わさび寿司ロシアンルーレット対決→しんぼる→そして、R100という次第に貧困にかつかぼそくなるラインを辿り、海外映画祭向けの松本人志の発言を鵜呑みにして、外人向けのコテコテのギャグ(固定観念によって展開される)と内地向けのコテコテなギャグ(マエ振りによって展開される)はなぜこうも分かりあえないのかというあの桂枝雀二代目を悩ませ、桂小文治が賢明にもすり抜けたあとは松本人志ただひとりしか追求していないマイナーな難題に白煙を上げるのはもう止めよう。松本人志が追求したふたつの両天秤である話芸と映画という両輪はこれまでも、そしてこれからも決して釣り合うことはないだろうという溌剌とした諦念から、松本人志のひと言の切れ味のあまりの鋭さを目撃するたびに、映画の演出は彼の口舌には決して競り勝つことはないだろうというある種の安堵で自分をだますのはもう止めよう。SとMをめぐる考察のあまりの浅薄さにあきれ果てたのもつかの間に、いや、究極のSはMにつながり究極のMはSにつながるという松本人志のテーゼは、彼が以前に述べた文句のひとつ、「いちばん多くの笑い声を聞いた耳でありたい」という彼の宣言につながり、結局のところ、笑いの理論の延長としてこの映画を楽しむことができるのだなどと興味深くないわけではない類推にさまようのはもう止めよう。先行する映画作家北野武との恒例の比較から、「監督バンザイ」を挙げるまでもなく映画監督に「出世」する芸人の自意識にはもう飽き飽きとしているがひょっとしたらあの松本人志ならあるいはと期待しては裏切られて映画館をあとにするというもう何度もくり返した都会の夜の空気の冷たさで涙を拭うのはもう金輪際止めにしよう。『さや侍』で天才松本人志が初めてデクパージュに遭遇した最初の五分間の思いがけない感動の余韻から、高須光聖をはじめとする取り巻きの放送作家たちとついに訣別して見出された『R100』のラストの掘建て小屋の場面に対してそわそわしながら、セルゲイ・エイゼンシュテインが五作目の『アレクサンドル・ネフスキー』(1938)で到達した映像と音楽の幸福な一致に、映画監督松本人志はたったの4作目で踏破したのだ――しかも、デ・パルマは観ていてもエイゼンシュタインなど一度も観ることなく――と所在なさげな震え声でつぶやくだけでは飽き足らず、それにあの偉大なロベルト・ロッセリーニだって『イタリア旅行』(1953)の撮影現場でジョージ・サンダースをのけ者扱いしたものだと余計な映画史的記憶を召喚し、こうした撮影現場にフィクション的な状況を持ち込み、俳優を孤立させることで生まれる演出効果を松本人志が『さや侍』の野見高明に対して試したときも、やはり松本人志はそうした映画史的な振る舞いに対してまったく無自覚であったにちがいないのだなどと念を押すのももう止めにしなければならない。
『R100』。くり返すが、この作品はバラエティー番組でもなければコントやビデオ作品でもなく、2時間近い上映時間を備えた、間違いなく映画と呼ばれうるものなのだ。
 確かにこの映画は、あらゆる動機を欠いているという点で分析を拒む作品である。動機を欠く映画を作る監督の動機に対する分析手段もないわけではないが、そんなスノッブな態度でこの作品を分析するのはふさわしくないし、自意識というのはおうおうにして後戻りのできない狭隘な路でしかない。大森南朋がSMに開眼したきっかけも理由となるエピソードもいちども語られていないからといって、それはこの映画の欠点ではない。というのも、松本人志にとって興味があるのは、不在の原因とその究明といったありきたりなドラマではなく、おそらくはまだ彼自身しか手にしていない物語の鉱脈――だれにも共感できない悩みを抱える男という、およそ筋らしい筋は必要ないシチュエーションコメディのテーマ――を探り出すという行為が、いったいだれに求められうるのかという、作品の主題とその興行形態が必然的に含まれる包括的な問題系だからだ。この「必要とされていない男」でもなければ「いてもいなくてもいい男」でもなく、ただ「共感されない男」という問題系は、『大日本人』においての主要な問題系である「なぜニッポン国では正義のヒーローが外部からやってくるのか」(①「屠殺業への忌避感情」、②「正義の外注――すなわち正義の希求者とその遂行者との分裂による伝統的な二枚舌的権力構造」、③「短小な身体的コンプレックスの裏返しである巨大化願望」という三つの純日本的価値観の複雑な混合の分析)や、『しんぼる』における「神のみが遊ぶことができる、ただし人間の名のもとで」と比べると、問いを形成するまでにはいたっていないように見えるかもしれない。『さや侍』においてようやく前景化された「共感されない男」の主題は、「共感されない男がついに共感されるにいたった話」という風に変形されることによって、より一般的な物語の類型(家族愛)に収まるかに見えた。しかし、これは松本人志の基本的な戦略であり、「一般的な主題の裏に潜行する真の主題」というシナリオ形式上の構成はこれら前3作に共通して見られるものである。すなわち、松本人志はさまざまに主題や調子を替えた作品を撮っているように見えながら、じつはつねにひとつの主題だけを追いつづけているのだ。『R100』では「SとMの相克」という耳目を引く主題系に潜行するかたちで、ふたたび「共感できない男」の物語が語られる。では、それはいかにしてか?
 動機の不在ということでいえば、『大日本人』の佐藤が大佐藤になる原因の不在とその装飾的コント(佐藤の拉致の暗室撮影場面から神主によるお清めの場面にいたる)が強調していたのは、虚実のドキュメンタリー性というよりはむしろ、ドキュメンタリーという枠組みそのものがもつ虚実性についてであった。この場面では、とってつけたようなSWATの突入シーン風の演出やお祓いをする神主を捉える報道番組風のよく動くカメラワークが、大佐藤を呼び出すためにまったく無意味な儀式を行っているというシナリオ上の主題を阻碍するまでに至っている(そうした儀式的振る舞いが徒労のように見えるためにはロングショットで撮らなければいけない)。だが、実際にそれが阻碍ではなく、つまり彼が撮ろうとしていたのはモキュメンタリー風の現実を演出が差配するという彼が築き上げてきた世界観などではなく、まさにそれらを阻碍しているように見える過剰な演出の部分であるとしたらどうか。この問いは、なぜ松本人志はあれほどCGを多用するのかという問いともつながる。松本人志が、北野武以降もっとも着ぐるみを多用した役者であり構成作家であることはよく知られている。(しかも、バラエティーにおいてではなくてコントにおいてである。この傾向は、着ぐるみが「コスプレ」に駆逐されるまでつづいた)『大日本人』の怪物たちは着ぐるみでつくられてもよかったのだが、彼はそうしなかった。そうした方がずっとビジュアルバムの世界観に近づけるのにもかかわらず。ここには、テレビのコント番組よりも大きな予算を映画では使えるという興行的な側面以上のものを含んでいるように思われる。というのも、テレビで放映されるドキュメンタリーの3要素――バッググラウンドミュージック、重要な要素を選別して繰り返すテロップ、全ての要素を解説するアウトボイス――が、松本人志の映画では、主要な構成要素になっているからだ。
コントの最良の意味でのおとぎ話的な約束事の世界観は、映画監督松本人志にとっては長いことテレビ的な編集技術に宿っていた。つまり、あるカットとカットのつなぎではなく、いわばスタジオという密室を視聴者の情緒的な反応を先取りするようなエフェクトで埋める技術的処理のことを、彼は編集と呼ばれる技法だと思っていた(実際、テレビのテロップは発言よりも早く画面に表れるため、あたかも発言者が決められた台本を読んでいるような印象が強化される)。これは、バラエティー番組にテロップが表示されるようになった時代――まだそれは、スーパーインポーズを真似た控えめな演出だったが、いまから考えればそれは視聴者への配慮という悪循環に陥っていくテレビの凋落を示す確かな兆候のひとつであった――から意識的に文辞を短いフレーズにしぼり、口から発することばをテレビ画面に表示される文字とそのサイズに沿うようごく簡略な形容詞に限定していった松本人志の適応性に、いったんはその理由を求めることができる。その制約のなかでこそ、松本人志特有の言語表現である状況の置き換え・着眼点のずらし(視覚的イメージ)、擬音・引き笑い・放屁(触覚的イメージ)、言い間違え、聞き間違え(聴覚的イメージ)の妙が発揮されることになるのだが、彼が映画を撮りはじめるようになってからも、こうした彼自身の出自による技術的な成果をそのまま映画に持ちこむようなことはしなかった。むしろ、松本人志の映画に頻出するのはそのような内的な鍛錬の成果(彼のことばによると、視聴者に「絵を描いてもらわなきゃいけない」笑いの技術)というよりは、番組を構成する編集要素のなかでも外的な要素、すなわち画面上で展開されるエフェクトを、映画という舞台でより実践的に取り扱おうとしているように思われるからだ。むろん、松本人志の映画では常に台詞がテロップとして表示されるわけではない。通常映画にテロップが用いられるのは日付の提示や物語の世界を要約する説話技法としてだが、松本人志の場合はそうではない。むしろ、テレビの主意主義を全面に出すような演出――別の人間による内的独白のアウトボイス、必殺技のテロップ、インタビュー形式の人物紹介といった、登場人物と登場人物のあいだを埋める糊づけ――のために用いている。むろん、これらの画面外の演出とでもいったものは、映画において初めて使われた技術である。これらをテレビの演出上の特徴といったのは、そのような技術体系の蓄積というよりは、その経済原則のためである。別人による内的独白のアウトボイスは、個人の内的葛藤という独自性を脱色して一般的な処世訓や保身術に落ち着くような効果を演出するために用いられ、テロップは主題や世界観を構成する要素というよりは厳密な意味で番組の放送枠内におさめるために用いられ、インタビュー形式の人物紹介は、単に配役上の焦点化に用いられることになる。これらの技術は、あくまでテレビ番組で培われた特殊な応用大系である(その編集方針に含まれる過酷さは、おそらくは「テレビに出演した者」にしかわからないだろう)。そして、テレビでは一般的になされている編集技術がなんの説明もなしに映画に持ちこまれると、われわれはどこか居心地が悪くなるものである。そこには画面上の配慮が台無しにされ、カメラと役者との自然な距離感が失われてしまうからだ。映画がなによりも観察の技法として存在する以上、そのような見る者に先入観を植えつける効果は、映画館のような閉鎖的な環境ではきわめて不快に感じられるものである。そこではからずも、松本人志は監督である彼自身もまた「共感されない男」のひとりとして、テレビ的な演出を説話上の要請から用いるというよりは、ジャンルのちがいによって生まれる異化効果を偏愛しているために、「テレビ的演出」を断片的に用いていると考えられる。事実、インタビュー場面は『大日本人』でも『R100』でも用いられており、その不自然さは作を追うごとに増しているといっていい。松本人志の演出方法には、往々にして登場人物と観客の安定した距離をかき乱すことによって、物語の設定や主人公の心情を追うことが困難になる瞬間がある。『大日本人』における怪物たちの戦闘シーンのひとつを取ってみても、そこには闘いらしい闘いはなにひとつ描かれておらず、むしろ巨大化した大佐藤と海原はるかをはじめとする怪物たちが実際に闘いはじめるとどこかしら居心地の悪い気持ちになり、やれCGがなってないとかこの既視感はなんだとか騒ぎ立てるはめにもなるのだが、そうした印象を通り越して考えてみればすぐさまわかるのは、松本人志は闘いの場面を確かに撮ろうとしているが、それでも彼の関心はそこにはないという動かし難い事実である。では、彼はいったいなにを撮ろうとしているのだろうか?
 こうして分析を進めていくと、前述したビートたけし松本人志の着ぐるみのちがいは、たんにバラエティーとコントといった枠組みのちがいを越えて、別種の意味を持ってくるように思われる。ビートたけしの着ぐるみは、あくまで彼の行動イメージの延長として現れていた。彼の着ぐるみは、無法なことをしでかす合図であり、無法なことにおびえ、取り乱す周囲の人間の狼狽や困惑を楽しむ表徴のいいであった。そこから敷衍していえば、北野武の映画の演出は、なによりも行動イメージの確かさに裏づけられており、抑制された演出のうちにわれわれには主人公が「なにをなすべきか?」がはっきりと分かるかたちになっていた。一例を挙げよう。『あの夏、いちばん静かな海。』(1991)では、ごみの収集車が海辺の道路を走っている場面がある。カメラは収集車が回収しなかったサーフィンボードを前景に、走り去る収集車を後景に捉える。その映像を見ながら観客は、やがて収集車が止まり、助手席の男が走り出してくるのが予測できる。このように、行動とそれをもたらす状況が一致しているのが、北野武の映画の演出の基本として存在する(これは、演出法としてはイタリアのネオレアリスモによって決定的な変更を加えられるまでつづいた極めてオーソドックスなものである)。この考えは彼の着ぐるみについてもあてはまるだろう。一方松本人志の場合はどうかというと、彼の映画では一貫して、主人公がなにかをするが、それに対する世界の返答が定かではない状況を描いてきたといえる。この分析は、同様に松本人志のコントの着ぐるみの活用にも敷衍できる。着ぐるみは、主人公の動きを束縛する。周囲の人間は、これまで隠していたサディスティックな感情をむき出しにして着ぐるみをきた男を取り囲み、足蹴にする。そこにあるのは完全な支配の関係であり、着ぐるみは不の要素でしかない。彼のコントで見ることのできる馬の死骸の着ぐるみや妊娠した半魚人の着ぐるみなどは、まさに動きを制限された状況で真価を発揮するために制作されたといえる。
 松本人志の芸歴におけるコントから話芸へのゆるやかな移行については、演者が動きを拘束されてゆく過程として考えることができる。そのなかで松本人志の根本にあるのは、「絵を思い浮かべること」である。馬の死骸を来た松本人志は、その大きな着ぐるみゆえにほとんど動くことができない。なんとか立とうとするが、その着ぐるみはもともと横に寝た状態を想定して制作されてあったために、一本しかない後脚がふらつきすぐに倒れてしまう。子供役の浜田雅功今田耕司がそれを見てはやし立て、死骸の馬はなおのこと憤激する……。こうした演出上の配慮は、後年松本人志が映画を撮りはじめた瞬間まで生きながらえ、現在にいたるまでつづいているといえる。「絵を思い浮かべる」ためには、逆説的なことに、絵を想起させる要素は少なくなければならない。なぜなら、絵を想起させる要素が多すぎると、それは絵そのものになってしまい、そもそも思い浮かべる必要がないからだ。動けないことによって生まれる笑いは、常に均衡のなかにしか存在しないゆえにいつでもあたらしい。演者と視聴者のイメージの媒介に関わる松本人志の数々の言辞は、「絵を思い浮かべる」という共同作業を正確になぞっている。着ぐるみも、そうした笑いの媒介要素のひとつとして存在している。つまり、松本人志のコントにおける着ぐるみは、なんらかのイメージの視覚化というよりは、ある根本的な問いを問わずにおくことによって生まれる居心地の悪さを表現するための媒介として存在しているのだ。なぜ、馬の死骸は生きているのか。こうした問いを子供役の浜田雅功たちは、問おうにも問うことができない。なぜなら、馬の死骸はちゃんと動いて話しているのだから。この分析は、CGについてもあてはまるだろう。一概に松本人志のCGの多用を批判できないのは、彼がそれを何のために使っているのか、われわれにはまだ未知数だからなのだ(劇中でなんども見られる、大森南朋の顔が膨らんで波紋のように波打つのはなぜか、私はいまだに説明できない。あれは快楽の表情を表すために用いていると本当にいえるだろうか?)。そして、仮にそのことで居心地の悪い笑いが生まれないとしても、彼の演出は分析するに値する。なぜなら、現代の映画に一般的に用いられるようになった技術をそのように使ったものはまだ存在していないのである。一般的に、CGは物理的に(経済的にであれ、演出的にであれ)再現不可能な描写を行うためになされるものとされている。松本人志の映画においても、この定義はほぼあてはまるように思われる。しかし、あの劇中なんども繰り返される顔の波紋は、この定義の埒外にある。そして、この演出は確かに彼の「共感されない男」の主題と結びついているはずである。顔の波紋は、Mの気質がある男だけが見せる恍惚の表情である。それは、暴力を振るわれた直後に見られることもあれば、暴力の予告や帰宅する電車のなかでの余韻として登場することもある。それらに共通しているのは、快楽の所在なさげな放出でもなければ快楽の一方通行性でもない(そうであれば、それはSの側に対しても見られるはずだ。むろん、Sの側に共通する演出は、その際限のない繰り返し、逆戻しと再生を慌ただしく繰り返す画面処理に現れており、そういう意味でいえば波紋のCGと対になっているということはできる。しかし、この対比はいまだ不徹底であるといわざるをえない)。むしろ、顔の波紋が表すのは端的に、意志と快楽の分離とでもいえる現象であるにすぎない。つまり、ここでは「共感されない」という主題、『R100』においては、「秘密のSMクラブに入会したはいいものの、あまりに過激なプレイがつづいて脱会を申し込むが、それもプレイの一環と受けとられざるをえない」というかたちではっきり定式化された主題は、主人公の自分自身への配慮の不在という問題に直結することによって、別種の流れをかたちづくっている。大森南朋扮する男は、自分の快楽に「共感できない」のだ。自分の快楽に「共感できない」ことが別種の快楽を生むのかどうかについてはだれにもわからない。ひとはそのように自分をだますことなどできないし、だまそうとすることもできない。だが、そのような問いはほとんど意味をなさないがゆえに「共感できない」だろう。そして、「共感できない」ことは、大きな価値をもつ。なぜなら、「共感できない」ことは、松本人志の映画においては、いつでもなにかがはじまる合図であるからだ。