(その二十六) 追放

 ある午後、朝から折り悪しく振り(ママ)つづいていた雨のなかを、半白の髪をした長身の男がたずねてきた。着ずれたカーキ色の服からして、その男の日常は楽でないことを示したが、フジタは別として、それが当時の日本人の標準的な服装だったことは確かである。
「なんだ、ガンさんじゃないの」
 戦争当初には、よくフジタを訪れていた内田巌だった。明治の文学者内田魯庵の長男で、上野(東京美術学校)を出てパリ留学後の戦時中に新制作(派協会)で活躍した、どちらかといえば技術より思想の勝った、重いリアリズムの作風の画家であった。きまじめな人柄が買われ、戦犯画家の糾明にのりだしていた日本美術会の書記長に祭り上げられていた。フジタにしてみれば、敵方の将校にも等しい男の訪れだったが、
「あがってよ、久しぶりじゃないの、ご馳走するよ」
 と、フジタは、懐かしげにいった。
 一時をいくらか回ったばかりの午後も早い時間だった。フジタは雨のなかを自転車で飛ばした。江古田駅近くの懇意な魚屋から、一般には手の届かない闇値のマグロのどてを譲り受けてくると、フジタの持ちまえの器用な手さばきで刺身にし、わさびも添えた。フジタ家ではすでに飽きがきていたアメリカ製の缶詰のハムやソーセージも、皿に盛りつけた。当時の一般家庭では望めない豪華な献立てで居間の食卓を飾ったフジタは、待たせた客を丁重にそこに呼びこむと、向かい合って座り、目を見張る相手をさりげなく見やってから、手際よく燗をつけた大きな徳利をとりあげた。
「さあガンさん、いっぱい」
 酒こそは、内田巌にはなによりの生きがいなのを、フジタはよく知っていた。
 ――それから二時間後。玄関先の、早い梅雨の訪れを思われる雨のなかに、着ずれた国民服の男は降り立つと、
「奥さん、すっかりご馳走になりました」
 あけたままの玄関の扉の奥の、居間にも届くはずの大きな声を出したが、返事はなかった。と、そこには、白い手製のコウモリ傘をひろげたフジタが立っていて、
「いいよ、いいよ、おれからいっとくよ」
 と、とりなすようにいった。二人は雨のなかを、右に左に小路をまがり、江古田駅まで一緒に歩いた。別れ際に、フジタは自分から手を差し出して、きゃしゃに痩せ細った内田の手をがっしりと握りしめた。――
 右はある暗い雨の日の事件として、戦後画壇史のなかでも有名な一つの挿話の概要である。酒を飲みながらか、飲むまえか、どちらかに内田が「日本美術会の決議」をフジタに伝えたのが直接の動機で、フジタはついに永久に日本を去ることになったから、内田厳はフジタを日本から追放した日本画壇の第一の責任者というわけである。この見方は、すくなくともフジタが死ぬまでは決定的だったし、いまも日本ならびに日本洋画壇に憎悪を燃やすといわれる君代夫人には、動かしがたい事実のようである。一九六八年(昭和四十三年)秋の朝日主催の「藤田嗣治追悼展」のとき、フジタの遺髪を持って日本に帰国した君代夫人は、その九月十四日発売号の週刊新潮「週間日記」欄に、〈ある暗い雨の日に、若い一人の画家が、陸軍関係の戦争画を描いた一同を代表してフジタに戦争犯罪人として当局に出頭してくれないかと勧めに来たことがあった〉
 と語っている。この若い画家とは誰か? という同誌編集部の追求にこたえ、同九月二十一日号特集「藤田嗣治を追放した日本画壇の人々」のなかで、さらにこういっているのだ。
内田巌という人でさすよ。その人はもう亡くなった(昭和二十八年死去)ということも私はちゃんと知っています。「出頭してくれ」といって来られたとき、私は申しました。
「フジタにこんなことをいってくるあなたたちは、バチが当たって死にますよ」と。
 ガンで亡くなられたのでございましょ〉
         田中穣『評伝 藤田嗣治』芸術新聞社 一九八八年二月発行 214〜215頁


 この第二次世界大戦の敗戦直後に起こったといわれる絵画史に有名な追放劇を構成するに当たって、田中穣はいくつかの前段階を踏んでいる。そのうちのひとつは、アメリカ軍の東京進駐の報道があった数日後に、藤田嗣治は証拠隠滅を図るために〈庭先に掘った穴のなかで、戦争画のスケッチや、資料、写真などを焼〉き、土で覆っただけでなく、〈近在に住む猪熊源一郎と佐藤敬の二人のほか、石川県の小松に疎開中の宮本三郎にも手紙を書き〉、今後の身の振り方を教示した場面であり、もうひとつは、GHQの文化情報関係を担当する若い将校との駆け引きの場面である。藤田嗣治の国際的な名声を知り、絵画の道を志したこともあるという若い将校が、戦時中に「虚偽と歪曲にみちた戦意高揚画」を描いたばかりか、「戦争画協会」の会長職に着任し、「軍の圧力に服従しなかった画家の弾圧に手を貸した」戦犯としての罪状を述べあげるのに対して、藤田はあくまで「国民の義務」を盾に記録画としての芸術的中立性を主張し、芸術と政治の分離を説いて責任追及の手を敢然と回避する。この文脈から見れば、先の引用場面は、彼の機をみるに敏な対応が、GHQをやりこめることはできても、本国の、それも最も親しい身内の追及には足もとをすくわれることになったという解釈になり、藤田の後半生を決定づけることになった「日本嫌い」に帰結するだろう(しかも、内田巌は、戦犯勧告を突きつけにいった相手に甘んじて接待を受けている!)。田中穣はこの文脈で追放劇を扱っているが、そこに「君代夫人」を登場させることによって、独特のぼかしを入れている。なぜなら、告発状を渡しにいったとされる内田巌は、この当時、すでに中年の「半白の髪」であったのに対し、「君代夫人」の証言では「若い男」となっているからである。また田中穣は、この「暗い雨の降る日」の内田巌の行動が、日本美術会の意向を必ずしも反映してはおらず、自らに危険が及ばない範囲での「戦犯」探しに奔走する協会ですら、結局は進駐軍に人身御供を差し出す行為に良心の呵責を感じ、戦犯割り出しの任を断念せざるをえなかったという談話を載せることによって、この挿話自体が根拠の不確かな、藤田嗣治の自己演出である可能性をも暗示している。
こうした食い違い、すなわち、ひとつの事件に対する複数の証言者の意見の不一致は、画家の伝記の場合さして珍しいことではなく、それぞれの利害や思惑が交差しているという意味で、解釈はすでに事件の一部でさえある。この問題のやっかいな点は、証言を訂正するのは、多くの場合未公開資料の発見などによってではなく、新たな証言や解釈の積み重ねによってでしかないということだ。これは、一九一七年の雪の降る日、藤田が初めて画家として生計を立てられるようになった日の出来事においてもみられるだろう。リュー・ド・ラ・ポリシーの通りにある、ギャルリ―・アンデパンダンの画商との交渉はだれが行ったのか。湯浅かの子『藤田嗣治 パリからの恋文』(新潮社)は、藤田が関係を持った女を徹底的に利用してきたという観点から、交渉は藤田の二番目の妻であるフェルナンド・バレが行ったにもかかわらず、藤田がそれを隠匿し、自分ひとりの手柄にしていると非難するが、近藤史人『藤田嗣治 「異邦人」の生涯』(講談社)では、初期の自伝および夏掘全弘「藤田嗣治論」を検分した藤田自身の書き込みを参考にして、フェルナンド・バレが自分の名声を広めようと噂を広めただけで、交渉は藤田本人が行ったという説を採用している。私が問題だと思うのは、彼ら後世の伝記作者たちが、伝記記述の正しさをもっぱら、信用の置ける単一の資料を基にする、という資料選択上の手続きに求めている点である。彼らの粗雑な認識が、人間の個別経験的な証言を事実認定的な資料と同定するという短絡を犯している以上に許しがたいのは、彼らの事実認定の手続きが、そのまま藤田嗣治(およびフェルナンド・バレ)の性格描写に直結していることである。つまり、藤田の性格は、彼本人の資質や生い立ちに着目されて考察されることはまずないといってよく、伝記作者の恣意的な資料操作による思い込みの補強に過ぎなくなっているのだ。この考えに従えば、湯浅かの子は、藤田の芸術界(社交界)における上昇志向に徹底的に利用された哀れな女たちを強調するために、藤田の冷酷で打算的な性格を構築していることになるし、近藤史人は、未公開資料の恩恵を「君代夫人」から負っていることから、女運がない波乱の人生を送ったドン・ファンが、その後半生に最良の伴侶を獲得し、フランスで帰化してカソリックの洗礼を受け、宗教的平穏に包まれるに至ったということになる。どちらの性格描写の場合も、その記述の退屈な平板さは藤田本人ではなく、伝記作者自身が負うべきであることに変わりはない。だが、肝心の伝記の問題は、資料操作に最も明示的に表れる方法論と、記述対象となる人物の性格を分離するという配慮によっては解決されないように思われる。
 この問題を、田中穣は伝記記述上の抑制や配慮というよりは、対象に迫る伝記作家自身の直観を感情移入の船頭にする伝記文学の伝統的な手法で解決しているが、おそらくこれは最善の方法とはいえない。伝記作者と小説家のもっとも大きな違いは、記述する事件のそもそもの実在性を疑うことができるかどうかにかかっている。伝記作者の場合、当の事件が存在しない以上、その事件に関わるすべての傍証は無意味である。小説家の場合、事件が存在するしないに関わらず、その事件に関わる傍証には一定の価値が存在する。両者の認識上の相違は、資料の信憑性に置くか、資料の解釈に置くかで力点が異なるという、本質と現象を扱う哲学の古典的な二元論を思い出させる前提によって大部分は導かれるだろう。内田巌の勧告は、そもそも存在したのか。この問いは、しかし伝記作者と小説家の両方から発せられてのみ意味をもつ。もし、この問いを問うこと自体が無意味になったら、すべての伝記は破産するだろう。なぜなら、事実の確実性を疑うことは、事実そのものの存在を抹消することと決して等価ではないのだから。同じように、ある人間の一生を描く行為において、一度設定した性格が破綻しそうな出来事に遭遇したときも、なんら憂うべきではない。伝記作者も小説家もひとしく犯す間違いは、ある解釈コードがあれば、膨大な人生に関する資料は統御できるし、また、新たに似通った出来事を創出するのは容易であると過信することである。出来事と解釈・資料の間にどのような連関を作れるかにかかっているという意味では、両者の間に違いはない。
 ここで、一九一七年の場面をふり返ってみよう。ギャルリー・アンデパンダンの画商との交渉をめぐる、藤田の書き込みは以下の通りである。〈この噂は全く事実に反した事で、私の妻は、女流画家でもなく素人の女画学生の真似事の様な事をしてただけで、画商に画を届ける走り仕事をしてた程度で私を世に出す役に立った事はなく却って迷わくした事のみ多く、友人間が私の事をねたみ又私の元の妻が勝手にホラ吹いて歩いた事に過ぎない。画商も私が見つけ、その交渉もみな私がやった事で、この一頁は偽りなり。モンパルナスのカッフェでヨタを売ってオシャベリしてた女で人は良いがそれだけの人だった〉。藤田の人間観察には、この文章に典型的に見られるような浅薄で独りよがりな評価が散見されるが、彼が他人を評価するのとまったく同じ視点で自分自身をも評価したということに着目しなければ公平ではないだろう。この点は注目に値する。孤独の問題を除いて、藤田は一貫して人間の価値を、生涯のうちに他者からその人が与えられる評価によって計測した。藤田が初期の自伝で「私というもの」という題の章を書き出したときも、彼の主要な関心は、自分がどのような人間であるか、もしくは自分がどのような人間であると考えているかではなく、周囲の人間から自分がどのように見られていたのかを述べることにあった。藤田の独特の自己演出癖は、周囲を楽しませるために道化を演じる自分を他人のように見つめる醒めた眼差しを生み出すほどに冷静なものであったが、藤田はそのように作り上げたイメージを観察するニヒルな内面を本来の自分だと思うこともなかった。藤田の孤独は、やさしさを隠された目的遂行の単なる外皮に過ぎないと見なし、素朴な思いやりに見えた行為は実際には用意周到な打算だったと後に憤慨した周囲の人々が彼にくだした評価の無責任な反転にまったくといっていいほど無力であったことではなく、それを裏づける自己も論駁する自己も彼のなかには等しく存在しないことにあった。そのため、藤田にもたらされた多くの誤解は、彼自身の一部であったといわれてもしかたがなかったかもしれない。藤田は誤解を解こうと努力するよりも、話を作り替えたり、黙って無視することを選んだ。藤田にとって、真実はそれ自体としては存在しないも同然だった。なぜなら、真実とはそのときどきの評価によってどのようにも形を変えうるからである。この認識は、彼が片時も休んだことのなかった画家としての精進にもあてはまるだろう。画家としての道に彼を駆り立てたのは、彼が自分の才能をまったく疑った形跡がないばかりでなく、技術を研鑽する絶えまぬ努力と模倣に終始しない独創性への固執があったからだが、才能はあくまでも名声によって補完されなければならないものだった。藤田は、モンパルナスの酒に飲まれて浮かれ騒ぐ集団の先頭に立って狂態を演じていたときですら、一滴も酒に口をつけたことはなかった。酒は毒だと言ってはばからなかったのは、一時熱を上げたギリシアの起源に立ち返ってパルマコン(毒=薬)の語義的解釈を連想させたわけでも、ロマン主義的な陶酔境や甘美な破滅を意味したわけでもなく、単に酒が芸術家としての養生に悪影響を与えるという事実を口にしたに過ぎない。藤田はしばしば、芸術家は健康体であらねばならぬという自説を講釈するために、「健全な肉体に健全な精神が宿る」といったもっとも陳腐な格言を傍証にすることもいとわなかったが、酒や薬物に蝕まれただけでなく想像力の源を求めた芸術家が数多く存在するエコール・ド・パリのなかでも、ひときわ異質な健康に対する彼の素朴な信条は、彼が伴侶とした女性たちの生活観とは、しかしまったくと言っていいほど干渉することはなかった(くだんのフェルナンド・バレや「ユキ」に赤毛のマドレーヌ、それに「モンパルナスののキキ」は、持って生まれた若さを蕩尽するように酒やドラッグに手を出した)。藤田が講演を頼まれ、芸術家や日本国民としての理想を語るときは、いつでもまず自分の生活や信条を達成すべきモデルと断言してなんの衒いも感じなかったが、それが万人にあてはまる考えではないことは百も承知していた(海外での成功を鼻にかけるスノッブな発言として、藤田はたちまちのうちに日本人に嫌われた)。芸術家は絵筆を握る藤田であって、魅力的なモデルたちではなかったように、彼の徹底して優生学的な世界観によると、この世のなかは完全なニ進法でできあがっており、多くの0と選ばれた少数の1が存在する。真理が語るところによると、「0にいくら0を足しても0にしかならない」。
 画家としての規則正しい習慣を義務づけ、集中できる画題に出会ったときは食事を取るのももどかしいほど節制に務めた藤田は、一方では彼の判で押したような精進の生活を乱す存在を拒まなかったばかりか、多くの場合望まれるとおりに温かく受け入れた。ひとりでイーゼルに向かっているときは、寸暇も惜しんで他人に時間を削られるのをひたすら嫌悪したにも関わらず、晩年にいたってさえ知人の訪問がない孤独な状態には堪えられなかった。この矛盾してみえる性格は、藤田が自己の考える才能を日々の鍛錬と周囲がもたらす名声の両翼のうちに見出していたことによってはじめて説明されうるだろう。モンパルナスの寵児としてもてはやされ、藤田を模したマネキンがデパートのショーウインドウを飾り、レジオン・ドヌール勲章を邦人として初めて授与されたあとも貫き続けた画家の基本となるデッサンの重要性を説くときには、同時代の彼と「肩を並べる」巨匠である、ピカソやドランの名を引き合いに出すことを忘れなかった。美術を論じる藤田の語り口には、どこかしら信用取引を思わせるところがある。藤田は声を大にして、画家の才能とは影ながらする努力だと言ってなんのけれんも感じなかった。方法の探求は深刻さを帯びることなく、あたかも商売文句を並べるような軽口のなかで論じられた(カンヴァスに描かれたアトリエの机のように、名声とゴシップは雑然と並べられた)。だから彼の書く文章は、不思議なことに、押しつけがましさが充溢しているほどにはうっとうしくはない。藤田は、他人の賞讃を固辞する慎ましさなど露ほども持ち合わせていなかったかわりに、一度の賞賛で言葉の表すすべてを残らず受け取ったために、かえってすがすがしい男だと評価された。こうした評価は例外的だったにせよ、藤田に関する正当な賛辞のひとつであることにかわりはない。
 おそらく、藤田ほどその性格の評価が(同一人物においても)二転三転した画家は珍しいだろう。この問題は、一時の不慣れな成功が画家の驕慢を招いたわけでも、死後に初めて同時代には見い出されなかった美的価値が発掘されたわけでもないだけに考察に値する。三度目の妻であるリュシー・バドゥ(ユキ)は藤田と別れたずっとあとに、「彼のやさしさは本当のやさしさではなかった」と語っているが、このような発言は、彼の「自己演出癖」にその原因を求めるべきではない。藤田はただ、彼の好意にすがった人々が決して好意だけでは満足しなかったように、感謝にしかるべき対価を要求しただけであって、藤田の「打算的な性格」を詮索した人々が気づいていなかったのは、ここで働いているありきたりな等価交換の原則である。彼らはそれぞれの流儀や経験則から自らの求めるものが、〈長きに渡って名声を博した大画家〉である藤田によって与えられるのは当然だと考えていたが、恥をしのんで施しを乞うた自分が、その返礼としてなにかを求められ、与えることもできるということを知ろうとしなかった。そのために、かつての栄光を共有した画家の満足した眼を見た瞬間、与えたのではなく、単に奪われたと感じたのだ。彼らの多くが自分の衰勢を藤田の満足した笑みによって照らし出された憐れな恥部のように思った。それでも、画家として成功した藤田を中心に広まった信用取引の世界において、賃借対照表をはじめに作ったのは、藤田ではなくて施しを求めに行った人間であったと私は思う。藤田は自分が捨てた(捨てられた)人間に対しては、驚くほど頓着することがなかった。忘れられるよりも先に忘れた。彼らが再び藤田の記憶に浮上するのは、彼らがノックしたドアを開けた瞬間であった。彼らに罪があるとしたら、彼らはまさに自らが求めるものを与えられたことによって、藤田に裏切られたと感じたことであり、藤田の罪があるとしたら、彼と生活をともにしていた時代と打って変わった憔悴や貧困のあとを痛ましく思うことなく観察しながら、求められたもの(だけ)を惜しみなく与えたことにある。一見して独りよがりに思える藤田の認識は徹底していたが、それは彼自身の洞察であると同時に、時代が彼に下した評価でもあったことは、画壇の「戦犯」をめぐる問題に最もよく現れている。名声が藤田を栄えある「国民作家」に上りつめさせ、のちに「戦犯」として国外逃亡を余儀なくさせた。藤田はそうした人々の意見を日和見主義として片づけることはできなかった。変わりばえしやすい取るに足らない評価ですら、才能を語る言葉に違いはなかったからだ。藤田の求める愛のかたちは、ある詩人が書いた詩の一節にもっともふさわしい輪郭を見つけたことだろう。「半分だけ愛してください」。残りの半分の価値は、藤田だけが知っていればいいことであり、「乳白色の下地」と絶賛された彼の絵画技法が注意深くその深奥を隠されたように、いつでも肝心のことをしゃべらない癖がしだいに板につくことによって、彼の自信はより深まりさえした。
「火のないところに煙は立たぬ」ということわざは、人々の根も葉もない噂の自己正当化をさすと同時に、才能のない人間にはそもそも噂はたたず、才能は必ず(できれば生前に)報われるべきであるという藤田の信念の謂いでもあった。だから、画家はその作品だけでなく風変わりな生活や奇矯な挿話も含めた芸術家としての全体性において、人々を煙に巻くようにその煙に進んで身をまかせるべきであった。ただ自分をのぼせ上がらせるのがうまいだけではなく、芸術家だけに許される自己賛美には多くの証明が付されるべきであったし、その数は多ければ多いほどよかった(藤田は自作が金銭的な価値に数値化されたり、勲章が与えられたりするのをなによりも喜んだ)。高く飛ぶ鳥は、地上から昇る煙に身を焼かれるといった内容の走り書きが藤田の死後に発見されたノートに見られるのは、おそらくはそうした他者の口にのぼることの幸福と不幸を示しているのだろう。藤田は、「大陸的な」という言葉が島国で持ちうる程度に度量の大きな男であったが、ほんの小さな悪口にも本気で傷ついた。慰めを求めるよりも藤田が欲していたのは、それを打ち消してしまうようなあっと驚く出来事であった。人々はそこに藤田の変わり身の速さを見たが、藤田はいつでも画家としての自分は一貫していて、変わったのはその自分を語る声のほうだと思った。多くの誤解を一心に浴びせ、賛嘆のため息をもらし、陰ながらの罵声に変わりもした他人の口は、いつでも熱源である藤田に煙のようにつきまとったが、彼をもっとも当惑させる誤解は出会いよりも、別れがもたらすことに変わりはなかった。賛嘆か、罵倒か、どちらか一方だけを手にすることはできない――他人にとっても、自分にとっても――このことは、藤田がその波瀾に富んだ生涯において、唯一学ぶことのなかったありきたりな事実として残った。
 そこで次に考察を進めるべきなのは、なぜ藤田は一九二〇年代の神話——ひいてはボヘミアン的な生活を送っていたすべての芸術家に共通した文学的な神話、すなわち女性の手助けによって大成する名もなき若い芸術家というイメージ——に従わなかったようにみえるのかという点についてである。