2013-10-01から1ヶ月間の記事一覧

(その百二十七)アフタリアン

その男というのは小柄なルーマニア人で、パリにきたころには、カフエで、とくにラ・ロトンドで、モデル女や物好きな女たちや、レジスターの女たちに絹のストッキングを売っていた。彼はまず、この世に画家というものがいることに驚き、つぎに、絵が売り物に…

(その百二十六)アリス・プラン

有名なキキも客の一人だった。モンパルナスに来たばかりだった私は、彼女が界隈の女王的存在であるとは知らなかった。しかし、彼女の個性は人を引きつけ、声には独特の魅力があって、エクセントリックな美しい顔をしていた。メーキャップそのものからして芸…

(その百二十五)黄アス弐等久大佐

人に頼みごとなどなにひとつできない性格だったにもかかわらず、彼がその長すぎる人生のなかで、そのために不利な立場に置かれるようなことはなにひとつなかった。海軍時代においてもその後の公職追放時代においても、それは変わらなかった。ある種の命令系…

(その百二十四)アウグスト・ファルンハーゲン

彼が好かれなかったのは、あれほど融通無碍だったくせに妙に原則にこだわる頑ななところがあるのと、まわりの雰囲気に鈍感なのと、なににつけすぐに白黒をつけたがって問題を先鋭化させてしまうせいだった。 ハンナ・アーレント『ラーエル・ファルンハーゲン…

(その五十六)微笑

忠叔父さんは、ところどころ瘤のような筋肉で堅固に覆われている顔を、明るい表情のままムクムク波立たせるように、微笑しました。 大江健三郎『キルプの軍団』岩波書店 一九八八年九月二二日発行 八五頁

(その五十五)門限

私がはじめて溝口健二の作品を見たのは一九六四年のことです。場所はスペインのシネマテーク、フィルモテカ・エスパニョーラでした。その当時私は、漠然とした将来を抱えるだけの若者で、ふつうの生活から離れて二年間の兵役に服していました。兵役忌避をし…

(その八)鳥を捕る人

「ここへかけてもようございますか。」 がさがさした、けれども親切さうな、大人の声が、二人のうしろで聞えました。 それは、茶いろの少しぼろぼろの外套を着て、白い巾でつつんだ荷物を、二つに分けて肩に掛けた、赤髯のせなかのかがんだ人でした。 「えゝ…

(その五十四)自嘲と呼ぶには程遠い

あるとき唐突に、彼は奇妙なことに気づいた。彼の住むアパートと、向かいの側に建つアパートは、境界線の植木を軸とする完全な線対称だった。ふたつの建物は高さも、階あたりの部屋数も、ドアの大きさも、階段の位置も、手すりの色や材質に至るまでいっさい…

(その百二十三)スシーロフ

しかし、オシップのほかに、わたしを助けてくれた人々の中には、スシーロフもいた。わたしはこの男をわざわざさがしたわけでもなければ、頼んだわけでもない。彼のほうからいつのまにかわたしを見つけて、用を足してくれるようになったのだが、いつ、どうし…