2013-03-01から1ヶ月間の記事一覧

(その六)ダイヤー(皮革染色業)

ほんとうに月の支配を受ける日々があった。 彼は落ち着きを欠き、アリス・ガルでいっぱいになっていた。水道のトンネルが完成すると、パトリックはウィケット・アンド・クレイグ皮なめし所に職を見つけた。その新しい乾いた世界で彼の肉は引きしまり、湿っぽ…

(その百十三)リバプールスイート吉永

リバプールスイート吉永の闘争的な性分は、けんかっ早い短命さで発揮されることがなかったために周囲の眼につきにくかったが、だれもが彼に一目置かざるをえなかったのは、目には目を、歯には歯をという前論理的な復讐の思考をすっかり血肉としていたからだ…

(その十七)ハンフリー・ボガード(2)

年をとることによって得られた彼の洗練さは、最も驚嘆すべきものだろう。この頼もしい人物が、肉体の力や、軽業師的な身ごなしの柔軟さによって、スクリーン上で目立ったことは一度もなかった。つまり、ゲーリー・クーパーのようだったことも、ダグラス・フ…

(その百十二)ヒースロー喜一郎

ヒースロー喜一郎は強盗に必要なすべてを備えていた。自分のものではない金品を欲することと手にしたあぶく銭を躊躇なく投げ出すこと。一瞬の所有者となることを運命づけられた男は、彼がこの社会に生を受けた全ての証を売りさばき、追っ手の執念深い追跡を…

(その百十一)高貝光則

一九七〇年に入って秋田県の出稼ぎ労働者の数が六〇〇〇〇人を越えたとき、そのひとりであった高貝光則の労働時間は月に五〇〇時間の大台に乗るかに思われた。二四時間と三六時間のシフトを繰り返し、床につく時間を二時間に削って眠りながらベルトコンベア…

(その百十)憂鬱症者

憂鬱症者。ーー憂鬱症者とは、自分の悩み、自分の損失、自分の欠陥をとことんまで考え詰めるに足るだけの精神力を持ち、またそういう精神力を働かせることへの喜びを持つような人間である。しかし彼が自分の身を養っている領域は狭小にすぎるので、ついには…

(その百九)パイロット

「ハイ」 その人は顔を上げて、最初にギターを、そして次にミルクマンを見た。 「それはどういう言葉だい?」その人の声は快活だったが、しかし棘が含まれていた。ミルクマンは巧みにオレンジの皮をむいているその人の指をじっと見つめていた。ギターはにや…

(その百八)ジョージ・バーナード・ショー

バーナード・ショー氏は、彼と意見を異にする人からも、そして、(もしあれば)彼と意見を同じくする人からも(と私は思うのだが)、いつも、ふざけたユーモリスト、目を見はらせる軽業師、早変りの芸人のように考えられている。彼の言うことを真に受けては…

(その五十)アルクホリック

冷蔵庫のドアを、開けたり閉めたりしていた。日本酒の冷えた瓶と、プラスティックの茶色いドアが交互に眼に映った。不思議なことに、それ以外のものは眼に入らなかった。いや、そういうと嘘になる。まだしらふのうちは、酒を飲みだすと長期戦になることがわ…

(その百七)ララ

エキセントリックな人間というものは、一つ屋根の下に住んでいると癪のたねになることがある。例えば私の母は、奇妙なことに、ララのことをただの一度も私に語ろうとはしなかった。ララを一番愛したのは、彼女が遠くから嵐のようにやってくるのを見ていた人…

(その百六)高階充

東京からひとりの女の子が越してきたらしいという噂が広まったのは、房枝が盆の迎え火の準備をしていたときだった。母親の昭子が縫製工場に出ていたため、昼ご飯の準備をしていた房枝が、食器を並べるために盆提灯につかう和紙や竹ひごをどけていると、いと…