(その十七) 割礼

 今日の午前、ぼくの甥の割礼があった。がに股の小男のアウステルリッツは、もう二千八百回も割礼を行っており、処置が非常に上手だった。それは一種の手術だったが、幼児が手術台の上ではなくて祖父の膝の上に乗せられること、さらに手術者はよく気をつけるよりも祈りをつぶやかなければいけないことによって、困難さを加重されていた。まず男の児は包みこまれて動かないようにされるが、体の一部だけは開放されている。それから切断されるべき表面が孔のあいた金属板にのせて厳密に定められ、次に一種の魚包丁のような普通の小刀で切断が行われる。そのとき血や生身の肉が見られる。割礼施行人は長い爪の生えた慄える指でそれを手早く処置し、そしてどこからか持ってきた皮膚を、手袋の指のように傷の上へかぶせる。たちまち万事がうまく終って、子供はほとんど泣かなかった。それからなお短い祈りが行われるが、その間、割礼施行人はワインを飲み、まだいくらか血のついた指でワインを少し子供の唇へ持ってゆく。同席の者たちは祈る、〈今この児は契約を得ましたが、そのように律法(トーラー)の知識や幸福な結婚や良き行いの実行を得ますように。〉

 今日、割礼施行人の助手がデザートのとき祈りをするのを聞いたり、双方の祖父以外の同席者たちが、祈りの内容は何も分からぬままに、その時間を何かの空想に耽ったり退屈したりしてすごしているのを眺めたとき、ぼくは今やだれの目にも明らかな、行きつく先を予言することのできない変化のただなかにある西ヨーロッパのユダヤ教の姿を、まざまざと見る思いがした。だがそのことに最も関係の深い人びとは、そういうユダヤ教についてなんの心配もせず、本当に過渡期にある人間がそうであるように、自分たちに課せられたものを担っているのだ。最終的な形態に達したこれら宗教的形式にしてからが、その現在行われているかたちにおいてすでに議論の余地のない、単なる歴史的性格のものとなっていた。だから出席者たちに歴史的興味を起こさせるには、この午前のごく短い時間をつぶすだけで十分であるように思われた。なぜなら、彼らはこの時間内に、割礼とそのなかば歌われる祈りがもう古臭くなった昔の習慣であるということを、十分に知らされたのだから。
            フランツ・カフカカフカ全集7 日記(一九一一年一二月二四日の記述)』谷口茂訳 新潮社 一九八一年十月二十日発行 148〜149頁