(その六十)積夜具

 ふたりが出会ったのは、茶屋の前に夜具がたくさん積まれた布団のなかだった。
 男の名は仁吉といい、冷やかしの最中に素人の小娘を見初めてむらっ気を起こした。
 仁吉はとくにいい男ではなかったが、通った鼻筋に涼しい目許をしていた。鬢を撫でつける仕草に独特の色気があって、女を喜ばせる文句や素振りにも事欠かなかった。もし育ちがよければ茶屋の上でちやほやされることもあったであろうが、格子のすきまから女たちが憎からぬ視線を投げ返してくることで自信を得た仁吉は、一張羅の着流しの襟元を汚さないように、すこし猫背になりながら大通りを歩いた。手許には、女を見かけたのはそのときだった。
 女は茶屋に鯛を届けにきた八百屋の娘で、素人の分際でなぜ吉原のなかにのこのこ入ってきたのか大門の門衛も怪しんだが、いつも大尽の祝儀で金がうなっている茶屋の証書も持っていたので、門戸をくぐることができたのだ。娘が襲われるまでに時間はかからなかった。むしろ、すすんであかぎれののぞくぽっちゃりした手で仁吉を誘ったのかもしれない。
 娘の父は道楽で身を持ち崩した商家の次男坊で、婿入りも決まって婚礼の日取りも決まったある日、馴染みの女郎と東京湾に身投げしたが、ひとりだけウミガメの背なに乗って浜まで打ち寄せられたのだった。立派な紋のついた袴の胸元には鯛やミズダコが、袂にはアサリとワカメがうようよしており、救助にかけつけた若い衆が恐れをなして海幸彦の末裔とあがめ奉ったことから、家を勘当されたものの魚の目利きとなって今の商売につくことができた。失ったものもあった。浜に流れ着いてから、かつての放蕩児はいっさいの性欲を失っていた。そのため、先の若い衆から譲り受けた娘を大事に育て、いずれは娘がどこかの男をたぶらかす寝姿を覗き見て、無聊を慰めようと思っていた。娘には、三歳のときからハタハタの卵とクジラのひげとたこの吸盤と椿油でつくった香油を髪に馴染ませ、平仲の逸話に名高い丁字の香と小水を薫きしめた服を着させた。乳母たちは、その過激な匂いに食傷を起こして数日でいなくなった。父は香油の精製にいそしみ、暗い土倉のなかでさらなる香りの探求に励んだ。それだけでは飽き足らず、父は、若い女をおだてて商売を成功させた最初の上方商人から上等な鼈甲の櫛を手に入れ、娘の美しい黒髪を梳かしながら、自らの愉しみを満たす日をうっとりと思い浮かべた。当然生活は楽ではなく、収入のほとんどは娘の養育費に消え、下谷の裏長屋で赤貧の暮らしを送っていた。娘は名を揺葉と名づけられた。揺葉は、色とりどりの春画と張型に囲まれてすくすくと育った。
 揺葉を送った茶屋は、謹厳で容赦のない仕事ぶりの番頭たちに、インポテンツを確実に治せる趣向を凝らした店として知られ、金さえ払えばどんなことでもしてくれたが、いかんせん荒療治のために死人も絶えなかった。両手両足を失って日がな一日にたにた笑っている金無村の木蓮寺に潜む鼻のこそげ落ちた乞食も、もとはここの上客だという噂だった。揺葉の父親の欲求は、自然とそこに向いた。
 そんな父から生まれた娘がろくな女に育つはずもなかった。別にはっきりとした計画もなく、要するにたんに気が向いたというだけで、揺葉は父から仰せつかって鯛を届けに行くついでに、すでに三人の男と関係を持った。仁吉に誘われたときは、これを今日の最後の男と思うはずもなく、どこかでもう一人くらいひっかけられるかきょろきょろしながら夜具のなかに誘い込まれていったのだ。
 錦の夜具はたたまれた二枚の布団にきれいに置かれ、うずたかく積まれていた。仁吉と揺葉が潜りこむと、いちばんてっぺんの、まだ誰の袖も通していない高価な夜具が布団もろとも崩れたが、気にするものはだれもいなかった。仁吉は揺葉の頭に鼻を近づけて初めてぞっとする香油の匂いに気づいた。男たちのむさい吐息で香油は揮発し、さらにおぞましい匂いを放っていたのだ。
 揺葉は、布団にくるまれて初めて肉体的な疲労に気づき、ものうげな表情で自分にのしかかる男を見ていた。そして、疲労は最初すべての感覚を鈍くしたが、次第にひとつの感覚だけをゆっくりと、しかし強靭に研ぎすましていった。揺葉は怯えた。これまで感じたことのない感覚だった。それは痛みだった。
 揺葉は動揺した。というのも、それまで快感は、どちらかというと退屈をともなうものだったからだ。
 痛みは、重い布団のなかで蠕動運動を繰り返すごとにひどくなり、やがて耐えがたくなっていった。
 それは揺葉の父がしくんだ罠だった。父親は、魚介類をふんだんに使った香油の精製の過程で偶然猛毒を作り上げることに成功した。アルセノベタインやメチルアルソニウムを副成分とするその特別な香油を、朝の行水のあとたっぷりと娘の髪の毛に塗りこんでいたのだ。
 当然のように、娘が手をつけた三人の男との交情も、父はしっかり目撃していた。香油の効き目は思っていたほどなく、一人目の男があぜ道から転げ落ち、二人目の男は松の木の下で目覚めたあと筵をかきむしりながら嘔吐しただけだった。父はがっかりしながら揺葉につづいて大門をくぐり、追いかけて来た門衛の手に残ったはした金を握らせた。
 ようやく四人目の仁吉で――父はヒ素の効能を検分しているうちに娘の袖を引いた三人目の親爺との火遊びを見逃していた。それを知らなかったのは不幸だった、なぜなら、若い女の鬢付油の匂いを嗅ぐのに眼がないその親爺はすで絶命していたからだ――効果が表れたらしいことを知ると、父はいてもたってもいられなくなって、夜具のまわりを旋回しはじめた。冷やかしの客が積夜具のなかから聞こえてくる断続的な悲鳴に気づいたのはそのころだった。錦の上等な夜具が崩れて土にまみれ、酒樽がちゃぷちゃぷ波立ち、花輪の真っ白い山百合がしおれて花を落とした。喧噪に浮かれた表情をしていた男たちも、異常に気づいた。
 布団のなかでは、ふたりの男女がもみ合っていた。
 痛みの感覚は、すでにお互いに伝播していた。もし、互いに離れることでいくぶんかは激痛が鎮まることを知っていたら、仁吉と揺葉は互いの脇腹を蹴飛ばしあっただろう。しかし、二人ともそうはしなかった。背なは爪痕がきつく刻まれ、キンポウゲの黄色い花にかぶれたように、赤い斑点の浮いた肌がこすれあった。
「こんなことは初めてだわ。はっきり言って」
 揺葉は、父のさまざまな開発につき合っていたので、痛みの感覚には慣れていた。つまり、いくぶんかは内省的な気構えを保ちながら、痛みの実体と肉体を分離する作業に取りかかっていた。揺葉は独り言をつぶやき、仁吉の膚が食い込んだ爪をひと舐めした。塩辛い味しかしなかった。とすれば、そこには痛みの根元はない。
「つづけざまに三度。それも、休まずに」と揺葉はつぶやいたが、ほかの原因を探すには痛みがひどかった。それは頭痛にまぎれて、しかし、頭の芯ではない別のところから彼女に襲いかかってきた。
 仁吉は、行為を止めることができなかった。おそらくは、快感のためというよりは、自尊心のために。襲った手前途中でくじけるのは、自分の性衝動に対して忠実ではない。だが、結局のところ、それは惰性でしかなかった。というのも、彼の一物はもうほとんど用をなしていなかったからだ。
 仁吉は、三つ折りにし布団と布団の隙間で大きく息を吸った。途端に咳き込み、昼間のものを残らず吐き出した。
 仁吉に優しさがなければ、揺葉はかぶろうとは思っていなかったものをかぶっていたところだろう。彼の嘔吐は絹の夜具が吸い込んだ。
 横様に首をかしげ、肩のなめらかな部分にちょこんとあごを乗せるような案配で、揺葉は布団のあいだから夜気の漏れる方向に目を転じた。その頃には、中毒症状の末期で、揺葉の眼はかすんで、ほとんど見えていなかった。腰を揺する動きに合わせて、提灯の明かりが霞の奥から差し込んだ。
 揺葉は懐かしいような気持ちになった。この光景をなんども見たような気がしていた。そして、揺葉はひと言口にするのだ。そのことばはもうわかっている。しかし、口にしようとしても、喉から出るのはぴーぴー声ばかりだ。
 仁吉はもう、最後の空気を肺に収めたまま、動かなかった。
 茶屋の前で蠕動する布団の動きが止まった。冷やかしの客たちが、崩れた夜具を取り囲んだ。遠巻きにして、なにかが襲いかかって来ても隣客を盾にできるくらい寄り添って。
 相生の松に金鵄をあしらった、ごてごての夜具の隙間から、揺葉の腕が伸びていた。
 父はその手を抱き寄せ、自らの頬に押し当てた。
 父には、揺葉がしゃべろうとした最期のひと言も、優男風の風情の若衆が溜め込んだまま吐き出さなかった肺の空気まで、なにもかもがよくわかっていた。
 夜具のまわりで、誰もなにも言わなかった。涙を拭う音に経緯を表して。茶屋の主人ですら、番所には通報しなかった。こちらはただ、遊びの世界の秩序を守るために。やがて胸元に腕を入れた男たちがやって来て、生きている者と死んでいる者との世界に線を引いていった。作業は迅速だった。愛人たちの突飛な行為で夜が始まることはままあることだったし、まだ宵の口で、吉原の稼ぎはこれからなのだ。