2010-08-01から1ヶ月間の記事一覧

(その二十六) サマセット・モーム

私は彼がじっさいはかなり暗い人間で、淋しがりやではないかと思っています。彼が七十歳の誕生日についてしるした文章はかなり陰気なものです。私が察するところ、彼はあらゆる意味で淋しい人生を送ってきていて、人間に感情的な興味はあまりないという態度…

(その九) 見栄とつつましさ

マクヒィス おい、可愛らしい下着じゃねえか。 淫売 揺り籠から棺おけまで、まず下着だあね。 年とった淫売 あたいは絹はいっさい使わないことにしてんの。お客がじきに病気だと思いやがるからね。 ベルトルト・ブレヒト『三文オペラ』千田是也訳 岩波書店88頁

それぞれの背中  小津安二郎 『東京暮色』(1957)

女が宿命的にかかえる不幸は、結婚という行事によって分断される。結婚するまえには結婚するまえの不幸が存在し、結婚したあとには結婚したあとの不幸が存在する。このいたって単純な法則が支配する小津安二郎の後期の作品『東京暮色』(1957)には、も…

路上にて

スーパーマーケットに行った帰りの道で、路上に倒れている自転車があった。よく見ると、自転車には老婆がまたがっていた。サドルに座り走っていたそのままの姿勢で、そっくり九十度転倒したかっこうだった。夜の七時を過ぎたところで、他に人通りはなかった…

(その二十五) デイジー・パーカー

「おお、ノー。私を捨てないで」と、デイジーは言うやいなや、わっと泣き出した。「私があんたを愛してるってことは、知ってるでしょう。だからこそ、こんなに嫉けちゃうのよ」 前にも言ったように、デイジーは全く教養がなかった。全く無知で、全然教育を受…

(その二十四) シャルル・ボヴァリー

シャルルの話は歩道のように平凡で、月並みな考えがふだん着のままそこを行列して行った。なんの感動もあたえず、笑いも夢もさそわなかった。彼のいうところでは、ルアンにいたときもパリの役者を見に劇場へ行きたいなどという気はまるで起こらなかったそう…

(その二十三) チャールズ・スペンサー・チャップリン

チャールズ・チャップリンがはじめてカメラのまえに立ったのは、一九一四年一月五日、『成功争い』であった。この映画は喜劇俳優で製作者をも兼ねていたヘンリー・パテ・レールマンによって演出された。そのむかしバスの運転手をしていたこのオーストリア移…

(その二十二) トマーシュ

「私」というものの唯一性は、人間にある思いがけなさの中にこそかくれているものである。すべての人に同じで、共通のものだけをわれわれは想像できる。個人的な「私」とは一般的なものと違うもの、すなわち、前もって推測したり計算したりできないもの、ベ…

(その二十一) グスターヴ

彼女は、みんなから彼の性格のもっともきわだった主要な特徴だと思われていた、ほとんどありえないほどの親切さに眩惑された。彼はその親切さで女たちを魅了したのだが、女たちのほうはその親切さが誘惑の武器というよりも、むしろ防御の武器だと理解するの…

(その八)眼

自分の車をローリンソンの家の隣に停め、こわれた踏み段につまずきながら、不安な気持でヴェランダに上がった。 ミセズ・シェパードがドアをあけ、唇に指をあてた。目が非常に不安そうであった。 「一分ほど、お話をしたいのだが?」 「今はだめです。忙しい…

(その二十)  テオドール・ファン・ゴッホ

このころ、テオは、フィンセントにはできなかったやり方でフランスの美術界に地歩を築くようになっていた。画家の生活につきまとう困難を自分の目で見ていたテオにとって、兄の単純さは驚くばかりだった。工房と有名な画家、美術学校とサロンの複雑な相互関…

(その十九) グルーチョ・マルクス

グルーチョは人種、皮膚の色、信仰、小切手帳のいかんにかかわらず、すべての人間を平等に騙そうとする真の民主主義者だ。 ポール・D・ジンマーマン『マルクス兄弟のおかしな世界』中原弓彦・永井淳訳 晶文社29頁

(その十八)  横山やすし

破滅型というマスコミ用語がある。 ぼくが少年のころは、太宰治や坂口安吾がそう呼ばれていた。太宰治はそうかもしれないが、坂口安吾はどうなのだろうか? 近頃は色川武大をそう呼ぶ人がいるが、あまりにも大ざっぱ過ぎはしないか。 つまりは、健全な一般市…

(その十七)  ソープヘッド・チャーチ

むかし、物が好きな一人の老人がいた。こういう癖がついたのは、ごく些細なことであっても人間と接触するようなことがあれば、かすかながらしつこい嘔吐感に悩まされるからだった。いつからこの嫌悪感が始まったのか彼は思い出すことはできず、また、嫌悪感…

(その七) 微笑

彼女は煙草の煙を吐いて、その煙の中で微笑した。美しい歯だった。 「けさ、私が来るとは思わなかったでしょうね。頭はどう?」 「まだ、はっきりしない。全然予期してなかった」 「警察でしぼられた?」 「例のとおりさ」 「私、お邪魔じゃないの?」 「い…

(その十六) 救い主

救い主 信じられない光景だ! おいで、私の車に乗って、こんな所から立ち去ろう。 救われた娘 その考え、あなたの頭の中で固定観念になってるのかしら? アゴタ・クリストフ『伝染病』堀茂樹訳 早川書房162頁

(その十五) ヨアンネス・クリソストムス・ヴォルフガングス・テオフィールス・モーツァルト

ある日のこと、彼は深い夢想に耽っていたが、ふと一台の馬車が門口にとまるのを耳にした。見知らぬ人が彼に面会を求めているむね取りつがれ、彼はその人を案内させる。見ればかなり年配の立派な身装の男で、物腰には非常に品があり、しかもなにか威厳のある…

(その六) 手

彼が言うと、男は顔を両手でおさえ、泣きはじめたのだった。男の小さな華奢な肩がふるえていた。ふっと、思った。いや、手が思うよりも先にのびていた。男は、顔をあげた。驚き、おそれた。おびえた。涙をためた眼が、大きくひらいた。救けて下され、見逃し…

(その十四) ハンフリー・ボガード

「彼とキスしたことはたしかだけど、彼がどんな人間かは知らないわ」 イングリッド・バーグマンの証言 ナサニエル・ベンチリー『ボギー』石田善彦訳 晶文社

ジャンルという掟から逃げ延びることはできるか  ヤング ポール『真夜中の羊』(2010)

ジャンルという規則 その一本のフィルムが映画と呼ばれる以上、あるジャンルに属しており、ある特定のジャンルに属している以上、約束事には事欠かない。ヤング ポールの映画『真夜中の羊』(2010年)では、ホラー映画の約束事が、いたるところで反復さ…

(その十三) シュガー・レイ

俺は、今ではアダム・クレイトン・パウエル・ジュニア・ブールバードと呼ばれる七番街の、一二三丁目にあったレイのバーにも、よく行った。レイがいるときもあった。プロボクサーや一流のハスラー、ヒップな連中や綺麗な女性がたくさん集まる場所だった。連中…