人類性格図鑑

(その百五)バディ・ホールデン

彼があまりにしなさすぎたことは眠ること、あまりにしすぎたことは飲酒で、多くの人が彼の後の発狂を、才能が誘惑に負けて堕落する教訓劇として解釈していた。しかし、この頃の彼の生活は、一日の時間を繊細に割りふることで健全で微妙なバランスを保ってい…

(その百四)パット・ギャレット

パット・ギャレット、理想的な人殺し。公的な人物、医師の心。かれの手は毛深く、傷あとがあり、ロープで痛めつけられていて、手首に生涯消えないむらさきの痣があった。理想的な人殺しであるのはかれの心がひがんでいなかったからだ。通りでだれかを殺して…

(その百三)ヤニス・クセナキス

ヤニス・クセナキスは一九二二年にブライラ(ルーマニア)に生まれた。一九三二年に両親の祖国ギリシャにかえり、スペツァイ島のギリシャ・イギリス学園にはいる。十二歳のとき音楽をこころざす。一九四〇年宛ね工科大学にはいり、同時に抵抗運動にくわわる…

(その百二)ニコラス・テメルコフ

彼は列車でトロントに向かった。彼の村の人間が大勢いて、見知らぬ者の中に入らずにすんだ。でも、仕事がなかった。それで北へ向かう列車でサドベリーの近くのカパークリフに行き、そこのマケドニア・パン屋で働いた。食事と宿付きで月に七ドルもらった。六…

(その百一)ダニエル・ストヤノフ

北アメリカへの移住の道を明るくする出来事は、トーキー映画の出現だ。サイレント映画は、娯楽以外には何ももたらさない。顔にぶつけられるパイ、百貨店から熊に引きずりだされるしゃれ男――すべての出来事が言語と議論ではなく、運命とタイミングによって決…

(その百)不適合者

この男は敏腕ではなかった。かれの周辺では何もかもがうまくゆかず、かれは自信をもてなかった。アパートからは幾度も追い立てを喰い、借金で首が廻らなかった。住居が二重に人手に渡ったくらいでは、まだそこにへばりついていた。しかし、しょっちゅうの引…

(その九十九)森崎偏陸

スクリーンのまえで、バスター・キートンはそこに境などないかのように軽々と跳び越え、ジャン=リュック・ゴダールはその手前で絶望的な欲情にふけらせた。スクリーンのてまえで現実と想像がせき止められる(越えられる)瞬間を描く欲望は、いつでも映画を…

(その九十八) ジャン・パウル

ジャン・パウル。――ジャン・パウルは、非常に多くのことを知ってはいたが、しかし学問を持たなかった。いろいろな芸術におけるさまざまな呼吸に精通してはいたが、しかし芸術を持たなかった。享受できないと見なすものは何ひとつ持たなかったが、しかし趣味…

(その九十七) 三船敏郎

三船は、それまでの日本映画界では、類のない才能であった。 特に、表現のスピードは抜群であった。 解りやすく云うと、普通の俳優が表現に十呎かかるものを三呎で表現した。 動きの素速さは、普通の俳優が三挙動かかるところを、一挙動のように動いた。 な…

(その九十六) U田ル

引っ込み思案だがどこかぼんやりしたところのあるU田ル。大学時代、雨に塗りこめられた大教室でのたいくつな講義のあと、入口の傘立てにさした傘があっという間に盗まれてしまうということは、学生ならだれもが知っているはずなのに、授業のあと蒸し暑い廊…

(その九十五)テレンス・ウィリアム・レノックス

「なぜひきうけてくれるんだ、マーロウ」 「ひげを剃るあいだ、飲んでてくれ」 私は隅っこにうずくまっている彼を残して台所を出た。彼はまだ帽子をかぶって、トップ・コートを着ままだった。だが、やっと生気をとりもどしたようだった。 私は浴室に入って、…

(その九十四)ソクラテス

クセノフォンの伝承。ソクラテスはあるとき、軍営地で深い物思いに沈んで、二十四時間のあいだまったく微動だにしなかったという。

(その九十三)ロベール・デスノス

ミロとマッソンの傍らで、ロベール・デスノスは〈目覚めたお寝坊さん〉の生活を送っていた。仮眠状態で物を書く彼の才能は友人たちを面食らわせ、魅惑した。彼はどこでも眠れるようになり、彼を目覚めさせるために医者を呼びに行かなければならないことも何…

(その九十二) ジョン・エドガー・フーバー

アイゼンハワー時代を通じて、私たちは平穏無事にFBIトップの地位をまっとうし、足りぬものは何もないという満ち足りた気分を満喫していた。だが、だからといって、自らの心の奥底に根ざす大きな苦悩からエドガーが少しでも解放されたかというと、そうで…

(その七十) 藤田嗣治(2)

学校で絵を描いていたら誰かが、面白いぞ、と大声をあげながら教室へ入ってきた。今なア、美術館に行って、お賽銭箱に十銭投げるとフジタツグジがお辞儀するぞ。本当だった。隣の美術館でやっている戦争美術展にさっそく行ってみたら、アッツ島玉砕の大画面…

(その九十一) 森繁久彌

意地悪なところはあるし、偏屈のふりはしてみせるし、最初はあまり好きになれなかったとか、台本にせよ脚本にせよ、〈台〉や〈脚〉なんだからと言ってどんどん自分で直してしまうのが不遜に思えたとか、森繁さんについてはこっちが素直になれるまで、ずいぶ…

(その九十) あるところで思考が停止してしまう人達

道路公団民主化の推進委員会が、最終答申を出す前に大揉めに揉めて、委員長の今井某が委員長を辞めちゃった。「七人の侍」と言われてたのが、五対二で割れて、「七人の侍の中に野武士が入ってる」とまで言われる。「感情のもつれ」というところまで行っちま…

(その八十九) アンドレ・ザ・ジャイアント

ときに神話はその古めかしい外皮を破り、瑞々しいユーモアをたたえて現実に姿をあらわすことがある。伝説がさまざまな尾ひれをつけたために、ひとりの大男はきこりの姿に身をまとい、フランスのカンタブリカ山中で孤独に斧を振りまわす。大木が倒れるたびに…

(その八十八) ブルーザー・ブロディ

ブルーザー・ブロディが「キングコング」の異名をとるようになったのは、WWWFに参戦していた頃に撮られた一枚の写真がきっかけだった。それは、スタン・ハンセンやホセ・ゴンザレスらとともにアメリカ東部を巡業中に撮った写真で、ポーズを決めるブロデ…

(その八十七) アンドレ・ブルトン

同じ「ミノトール」編集室で、私はアンドレ・ブルトンとも知り合った。彼はもう、シュルレアリスム運動の英雄時代のように、方眼鏡や緑色の眼鏡をかけたりしてはいなかったが、それでも私は一目でブルトンだとわかった。整った顔立ちで、鼻はまっすぐに通り…

(その八十六)辰巳カリギュラ

辰巳カリギュラは、遊び人を自称する人がおうおうにしてそうであるように、とても几帳面だった。手ぶら、開襟、にやにや笑いに遊び人の特質を認める人は、本質を見誤っている。遊びは持ちうるすべてのエネルギーを消費するものであり、効率的に蕩尽しなけれ…

(その八十五)Tる丘

Tる丘のことで思い出すのは、いっさいのものに先立って存在するあの瞳だった。見上げることも見下ろすこともなく、ただ水平に物事を見通す瞳。Tる丘が顔を反らす。すると、秀でたほお骨に乗ったあのふたつの瞳が相手を貫き、後方の壁に突き刺さる。当の相…

(その八十四)Q

ビールの宣伝広告のようだ——もっとも慧眼な友人は、彼女のことをそう呼んだ。私は即座に同意した。少なからざる男たちは、すれ違う彼女の後ろ姿を眼で追ったに違いない。彼女は美人だったからだ。シャギーの入った肩までのストレートヘアーに、姿勢のいい反…

(その八十三) ボゾ

翌朝、われわれはもう一度パディの友達を探しにかかった。ボゾと言って、大道絵師、すなわち道路の上で絵を描く男である。パディの世界には住所などは存在しなかったけれども、ボゾはランベスで見つかるのではないかとは漠然とわかっていて、結局エンバンク…

(その八十二) パディ

パディはそれから約二週間、わたしの相棒になった。そして彼こそとにかく親しくなったと言える最初の浮浪者だから、彼のことについて書いておきたい。彼は典型的な浮浪者だし、英国にはその仲間が何万といるはずだからである。 パディはわりあい背の高い、三…

(その八十一) アンリ

下水道で働いているアンリもいた。背の高い、縮れ毛の陰気な男で、下水工夫用のブーツを履いているとなかなかロマンティックな男前だった。変わっているのは仕事のこと以外口をきかないということで、文字通り幾日でも口をきかなかった。彼はわずか一年前ま…

(その八十) ルージエ夫婦

変わり者もいた。パリのスラムは変わり者の巣窟である――孤独で狂った同然の人生に落ちた結果、ふつうのまともな人間になることをあきらめてしまった連中だ。金が労働から解放してくれるように、貧乏は人間を常識的な行動基準から解放してくれる。このホテル…

(その七十九) 清水N

彼女は、地方のある飲食店に勤めているあいだに体重が二十キロ増えたが、性的な魅力はいっこうに衰えていないと自負していた。 経験が彼女にこう語った。女の魅力の大部分は、まだ女の価値を知らない男によって作られる。知ったと思う男は、かえってそれを魅…

(その七十八) Y

Yは私の知り合いのなかでもひどく風変わりな男で、数ヶ月単位で取り組む研究テーマを変えては路上を徘徊していた。問題の探求にあたって、実証的なアプローチを図書館に籠もる学者の占有物にしてはいけないというのがモットーのYは、もっぱら読書や観察を…

(その七十七) モーリス・ユトリロ

彼の生活は悲惨だった。学校では殴られ、母親には見捨てられ、夜家へ戻っても慰めたり、力づけてくれる人もいなかった。そこで、彼は宿題をいい加減に片付けて、台所にブドウ酒のビンを捜しに行くのだった。 恐るべき事実、それはモーリス・ユトリロが八歳の…