(その九十五)テレンス・ウィリアム・レノックス

「なぜひきうけてくれるんだ、マーロウ」
「ひげを剃るあいだ、飲んでてくれ」
 私は隅っこにうずくまっている彼を残して台所を出た。彼はまだ帽子をかぶって、トップ・コートを着ままだった。だが、やっと生気をとりもどしたようだった。
 私は浴室に入って、ひげを剃った。寝室にもどって、ネクタイを結んでいると、彼がやってきて、入口に立った。「万一のときを考えて、カップを洗ってきた」と、彼はいった。「だが、何だか不安になってきたよ。警察に電話をかける方がいいんじゃないか」
「かけたければかけるさ。ぼくは何もいうことがないぜ」
「かけさせたいのか」
 私はふりむいて、彼をにらみつけた。「何をいってるんだ!」しぜんに声が大きくなった。
「なぜ今のままにしておけないんだ!」
「すまない」
「当然だ。君のような人間はいつもすなまいといってる。しかも、いうのがおそすぎるんだ」
 彼はふりむいて、居間の方へ歩いていった。


レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』清水俊二訳 ハヤカワ文庫版 早川書房 昭和五一年四月三〇日発行 四二頁