(その八十二) パディ

 パディはそれから約二週間、わたしの相棒になった。そして彼こそとにかく親しくなったと言える最初の浮浪者だから、彼のことについて書いておきたい。彼は典型的な浮浪者だし、英国にはその仲間が何万といるはずだからである。
 パディはわりあい背の高い、三十五くらいの男で、髪はごま塩がかった金髪、目は青くてうるんでいた。顔立ちはととのっているのだが頬はたるんでいて、ざらざらした皮膚には、パンとマーガリンだけの食事から来る特有の灰色がかった汚れがあった。服装は浮浪者としてはましな方で、狩猟用のツイードの替え上着に、まだモールがついている燕尾服のズボンをはいていた。彼にとっては、このモールにはあきらかにまともな生活の名残という意味があるらしく、とれてくると、またていねいに縫いつけていた。総体に身なりには気をくばっていて、「書類」ばかりかポケット・ナイフさえとうに売り払ってしまったというのに、剃刀と歯ブラシだけはけっして売らずに、いつでも身につけていた。それでも彼が浮浪者だということは、百ヤード先からでもわかっただろう。どことなくふわふわしたような歩き方、肩を丸くした、芯から卑屈な姿勢のせいにちがいない。その歩き方を見れば、これは殴るよりも殴られたがる男だということが、本能的にわかるのだった。
 パディはアイルランドで育ち、二年間戦争に行ったあと、金属の研磨工場で働いていて、二年前にそこを首になったのだった。浮浪者の身の上をひどく恥じていたけれども、完全に浮浪者の生き方が身についていた。道路をぶらぶら歩いていても、けっしてタバコの吸殻一本、それどころか空き箱さえ見逃さない。中の薄紙を、タバコを巻くのに使うのである。エドベリーへ行く途中でも、道に新聞紙の包みが落ちているのを見つけてとびついたが、中にすこし縁のくずれかけたマトンのサンドイッチが入っているのを見ると、ぜひ一緒に食べろと言ってきかなかった。自動販売機の前を通れば、かならずハンドルをひっぱってみる。ときどき故障していて、ハンドルをひっぱると銅貨が出てくることがある、と言うのだった。しかし、盗みを働く気はまったくなかった。ロムトンの郊外を歩いていたときにも、ある家の入り口の階段に、あきらかにまちがえて置いてある牛乳瓶を見つけたパディは、足を停めてその瓶をいかにも欲しそうに眺めた。
 「畜生!」と彼は言った。「せっかくの牛乳がむだになりかけているっていうのに。誰かあの瓶をかっぱらわねえかなあ。あっさりかっぱらってくれりゃいいのに」
 わたしには、彼が自分で「かっぱらい」たがっているのがわかった。道の上手下手を見まわしてみても、静かな住宅地なので人影はまったくない。口をあけたパディの生気のない顔は、欲しくてたまらないように牛乳を見ている。だが、そのうち彼は顔をそむけて、陰気な声で言った。
 「ほっとく方がいいね。盗んでもろくなことはねえ。ありがてえことに、まだ盗みはやったことがねえからな」
 彼に罪を犯させなかったのは、空腹から来る脅えだった。ニ、三回でもまともな食事が腹に入っていたなら、大胆に牛乳を盗んでいたことだろう。
 彼には話題が二つあった。浮浪者まで落ちた恥辱と、ただで食事にありつく法である。町中をふらふら歩いていても、彼は自分を哀れむようなめそめそしたアイルランド訛で、こんな風に呟きつづけた。
 「流れ歩くなんざ地獄だねえ。あんなひでえスパイクに行くなんざ気がめいるよ。だけど、他にどうしようもないじゃねえか。おれはもう二た月も、身になるような飯を食っちゃいねえんだ。おまけに靴はひどくなってきたし――畜生! エドベリーへ行くまでに、どっかの修道院で紅茶の一杯くれえ無心してみちゃどうだろう? たいていは、紅茶くれえ飲ませてくれるが。宗教がなかったら、どうしようもありゃしねえ。おりゃあ、修道院でも、バプテスト教会でも、国教会でも、どこでもお茶を飲ませてもらった。おりゃあ、ほんとはカトリックなんだけどな。だから、おりゃあ十七年くれえ懺悔もしてねえんだ。そいでも、宗教的感情って奴は持ってるんだよ、なあ。そいで、修道院って奴はいつだって親切に茶を飲ませてくれる……」と言った具合。これを、ほとんど切れ目もなしに、一日中つづけるのだった。
 パディの無知ぶりは、限りのない、ものすごいものだった。たとえば、ナポレオンが生きていたのはイエス・キリストより前だったのか後だったのか、と聞かれたことがある。またあるときは、わたしが本屋のウインドーをのぞいていると、『キリストにならいて』という本があるといって、ひどく驚いたことがあった。何も知らない彼は神に対する冒瀆だと思って憤然となり、「神さまの真似をしようたあ、どういう了見だ」と詰め寄ったものだ。字は読めるのだが、何となく本は嫌いらしかった。ロムトンからエドベリーへ行く途中でわたしは公立図書館に入ったのだが、本なんか読まないと言うパディに、中へ入って脚を休めたらどうだと言ってやった。だが、彼は外で待っていると言う。「嫌だよ」と言うのだった。「あんな活字なんか見るとむかむかする」
 放浪者はたいていそうだが、彼もマッチにはものすごくケチだった。初めて会ったときには幾つもマッチ箱を持っていたが、擦るのは見たことがなく、わたしが自分のを擦ると、贅沢だと言ってかならず説教した。他人に火を貸してもらうのが彼のやりかたで、マッチを擦るくらいなら三十分もタバコを吸わないことさえあった。
 彼の性格を解く鍵は、自分を憐れと思う情にあった。自分は運が悪いという思いが、一刻も頭を去らないようだった。藪から棒に沈黙を破って「着るもんを質に入れるってなあ癪だなあ」とか「あそこのスパイクの紅茶は茶じゃねえ、あんなもんは小便だ」などと言う。他には考えることがないようだった。それに、自分より暮らし向きのいい人間には、誰であれ、虫けらのように低級な嫉妬心を抱いていた。ただし金持ちは別である。金持ちは彼の社会的視野の外であって、職を持っている人間を妬むのだった。職に対する彼の憧れは、芸術家が名声を望むのに似ていた。働いている老人を見れば、いまいましそうに「あの爺いを見ろよ、能のある人間が働く邪魔をしやがって」と言う。あるいは相手が少年なら、「おれたちからパンを奪っているのは、ああいう若造どもなんだ」という具合だった。それに、外人というものは、彼に言わせるとみんな「糞おもしろくないよそもん」だった――というのも、彼の説では、外国人こそ失業の原因だったのである。女にたいする気持ちは、憧れと憎悪がなかばしていた。若くてきれいな女には高嶺の花すぎて無関心だったけれども、売春婦を見るとよだれをたらした。唇を真っ赤に塗った年寄りの売春婦が二人づれで通ったりすると、パディはぽっと赤くなって、ふりかえっては貪るように眺めるのだった。「オンナだ」というときの彼の呟きは、少年が菓子屋のウインドーを眺めて「オ菓子ダ」と呟くときと同じだった。二年も女と縁がないので――つまり失業以来ということになる――売春婦以上の女を欲しいと思うことはなくなってしまった、と語ったこともある。すべて、放浪者の典型的性格である――卑屈で、嫉妬深く、ジャッカルのように飢えているのだった。
 それでも生まれつき気前がよくて、さいごのパンまで友達と分けようという彼は、いい奴だった。事実、何度も、文字どおりさいごのパンを分けてくれたのである。仕事にしても、ニ、三ヶ月まともな食事をすれば、おそらくよくできたにちがいない。しかし、二年間もパンとマーガリンで生きていたとでは、その水準はとりかえしようもなく下がってしまっていた。食べ物ともいえない、このみじめな物を食べつづけた果てに、彼の精神と肉体は下等なものになってしまったのである。この男がダメになってしまったのは、生まれつきの性質が悪かったからではなく、栄養不良のせいだった。     ジョージ・オーウェル『パリ・ロンドン放浪記』小野寺健訳 岩波書店(文庫版) 一九八九年四月一七日発行 一九九〜二〇四頁
George Orwell, Down and Out in Paris and London (1933)
Secker & Warburg (1954)

 ある朝、われわれはサンドイッチマンの仕事を当たってみた。午後五時には、事務所がいくつか並んでいる裏にある路地へ行ってみたのに、もう三、四十人の行列ができていて、二時間待ったあげく今日は仕事がないと言われた。だが、大した損でもなかった。サンドイッチマンというのはそう羨ましい仕事でもないのである。一日十時間働いて給料は三シリングだし――しかも重労働なのだ。とくに風のつよい日はひどくて、おまけにさぼることができない。なにしろ、ちゃんと働いているかどうかを確かめるために、始終見張りがまわってくるのである。さらに苦労なのは、一日だけか、せいぜい三日ということはあっても、決して一週間契約ということはないので、仕事をもらうには毎日何時間も待たなければならないことである。この仕事ならやるという失業者の数が多いものだから、待遇改善を要求して闘うこともできない。サンドイッチマンならだれでもよだれを垂らすのは、ビラ配りの仕事で、給料はそっちも同じだった。ビラを配っている男を見かけたら、一枚もらってやるのが親切というものだ。ビラさえ配ってしまえば、それで仕事は終わりなのだから。
 こんなことをしているあいだも、われわれはあいかわらず簡易宿泊所暮らしをつづけていた――何事が起こるわけでもなく、退屈でやりきれない、みじめな生活である。何日間も何ひとつすることがないまま、ただ地下の台所に座って昨日の新聞とか、もしあれば古い『ユニオン・ジャック』誌を読んで過ごすようなこともあった。ちょうどひどい雨つづきだったので、入ってくる人間はみんな湯気を立てていたから、台所の悪臭はすさまじかった。たったひとつの楽しみは、定時に出るお茶とパンだけだった。こんな生活をしている人間が、ロンドンに何人いるのかは知らないが、少なくとも数千人にはなるだろう。だがパディにとっては、これは過去二年間で最高の生活と言えるものだった。放浪と放浪のあいだの休止期、つまり何とか数シリングを手にすることができた時は、いつでもこんな風だったのである。こんな生活でも、放浪生活よりは、わずかながらまだましだったのだ。めそめそと訴えるような彼の声を聞いたいると――物を食べている時以外、彼はいつもそんな声を出していたが――彼にとって失業というのがどんなに辛いかが、よくわかった。失業者の心配は給料が無くなることだと思うのはまちがいで、むしろ、働く癖が骨の髄までしみこんでいる無学な人間には、金よりも仕事の方が大切なのである。教育のある人間は仕事がなくなっても辛抱できる。それが貧乏生活でもいちばん辛いことなのだが。ところがパディのような男には暇をつぶす手段がないものだから、仕事を奪われたとなると、鎖につながれた犬も同然のみじめなことになってしまうのだ。だから「零落した人間」がこの世でいちばん哀れな存在などと言うのは見当ちがいで、ほんとうに哀れなのは、はじめからどん底にいて、暇つぶしの才覚もないまま貧乏と向かい合わなければならない人間なのである。(239〜241頁)