(その百五)バディ・ホールデン

 彼があまりにしなさすぎたことは眠ること、あまりにしすぎたことは飲酒で、多くの人が彼の後の発狂を、才能が誘惑に負けて堕落する教訓劇として解釈していた。しかし、この頃の彼の生活は、一日の時間を繊細に割りふることで健全で微妙なバランスを保っていた。床屋、「クリケット」の出版人、コルネット奏者、良き夫にして父親、そして悪名高い町の醜聞屋。彼が店をあけると、ふつう最初の一、二時間は客はいない。もし誰かがいるとしたら、それは「クリケット」にニュースを提供しにきた「蜘蛛」たちだった。仕入れた情報のすべてが編集されることなく片面刷りの大判の紙に記載された。それから彼は四時まで髪を切り、歩いて帰宅して、ノーラと八時まで眠った。二人は起きるときに愛し合った。そして夕食をとった後、メイソニック・ホールかグローブか、演奏が予定されている場所へと出かけた。そしてステージ。

 彼は当代随一の、最も音量のある、そして最も愛されたジャズマンだった。しかしプロ意識には決定的に欠けていた。唇を痛めることも気にせず、おどろくほど長く音符を吹きつづけ、また最初の一音で鼓膜を打つような音量に達することができた。彼は空気の精のようなものを信じていた。匂いのある空気が肺の中をまわるうちに無味無臭になり、それをあるキーのもとに吐き出すのだ。彼の口の片頬が空気のかたまりを吸い込み、音符の衣装を着けてどこまでもどこまでも続かせる様は、空気を雲のように空の上に浮かばせたがっているかのようだった。彼は空気を見ることができた。空気の色で、部屋のどこの空気がいちばん新鮮かをいうことができた。

 こうして行き当たりばったりのアマチュア然とバンドのメンバーとともにメイソニック・ホールの舞台へ到着すると、あとは一気にジャズの中へ、次々とハードルを跳びこえるように。そのレースの途中、彼は止まって聴衆に話しかける。そしてバンドをけしかける、音楽が町にあふれ出すくらいの音量でと、「コーニッシュ、いけっ、いけっ、窓を両手でつき破れ」と。行く先は夜、そして青白い朝へ、音量を増す音符が灼熱の矢のように皆をつきさし、かすめ、前の音符は次の音符にたちまち吞み込まれて体の中へ忘れさられ、ボールデンとリュイスとコーニッシュとマムフォードがいつまでもいつまでも前へ前へと音を送り出し、しまいに彼の目に、切り裂かれた空気が獣のように部屋の中を暴れまわっているのが見えた。


   マイケル・オンダーチェ『バディ・ホールデンを覚えているか』畑中佳樹訳 新潮社 二〇〇〇年二月二五日発行 一四〜一五頁
     Michel Ondaatje, Coming through slaughter,1976