(その百一)ダニエル・ストヤノフ

 北アメリカへの移住の道を明るくする出来事は、トーキー映画の出現だ。サイレント映画は、娯楽以外には何ももたらさない。顔にぶつけられるパイ、百貨店から熊に引きずりだされるしゃれ男――すべての出来事が言語と議論ではなく、運命とタイミングによって決定される。浮浪者が警官の意見を変えさせることはできない。警棒が振られ、浮浪者は片隅の窓からこそこそと逃げ、太った貴婦人の水浴の邪魔をする。これらの喜劇は悪夢だ。チャップリンが、目隠しされて、バルコニーのない中二階の端の近くをローラースケートで滑るとき、観客は怯えた笑いを発する。彼に警告するために叫ぶものはいない。彼は話すことも聞くこともできないのだ。北アメリカはまだ言語がないのであり、身ぶりと仕事と血統だけが流通している。
 しかし、ニコラスをここにやって来させたのは言語の魔力だった。一九一四年、沈黙したままの大旅行をして、パスポートなしにカナダに到着した。橋の下にぶらさがりながら、彼はその冒険の模様を自分に聞かせる。マケドニアの村々に戻ってきた者たち、西方へのユダの山羊〔ほかの者を荒廃へと導く動物〕となる最初の旅行者たちに、北アメリカのおとぎ話を彼が聞かされたのと同じように。
 ダニエル・ストヤノフがみんなを誘惑したのだ。北アメリカでは、なにもかもが豊かで危険だ。一時滞在者としてそこに行き、金持ちになって帰ってくるのだ。ダニエルは、食肉工場の事故で腕を失ったために受けとった補償金で農場を買った。そのことで大笑いする! もう一方の手をテーブルにはげしく叩きつけ、笑いでゼーゼーいいながら、彼らみんなを馬鹿だ、羊だと言う! まるで彼の腕が、彼がカナダ人たちを愚弄するのに使った乳の出ない牛であったかのように。
 ニコラスは、その契約の単純さにあきれた。ストヤノフの体が屠殺場で青ざめているのが、彼には見えた――牛の血から二インチのところに立ち、家畜と変わらぬものとして悲鳴をあげ、腕がとび、体のバランスを失っている。彼は服の袖をスカーフのようにバタバタさせながら、土地を買う現金を持ってオシュチマの村に戻ってきた。彼は腕がちゃんと二本ある妻を探して身をかためた。
 十年間のうちに、ダニエル・ストヤノフのおおげさな話は、村の全員を飽きさせてしまった。子供たちが成長して、アッパー・アメリカでの一時滞在者の物語にときめくほどわかるようになるのを、彼は待てなかった。ダニエルは語った。彼は事故で実際は両腕をなくしたのだが、たまたま同室だった失業中の仕立屋が、幸運にもその朝、シュナウフェルの屠殺場に居合わせてくれた。その仕立屋のディードラは、通りかかった猫から腸を引き抜き、それを使ってダニエルの右腕を縫いつけて元に戻し、それからもう一方の腕にとりかかろうとしたが、残飯あさりの犬がその腕をくわえて走り去ってしまった。戸口のそばでのらくらしていた犬たちの一匹だ。屠殺した動物を切り分ける作業から顔をあげるたびに、その犬たちが見えた。また、一日の終わりに、血に染まった作業着と靴で仕事場から出るたびに、その犬たちが袖口を舐めたり、噛んだりしながら、あとをついてきた。
 ストヤノフの物語は、ある一定の年齢に達したその地域のすべての子供に語られ、彼は子供たちのヒーローになった。ほらな。オシュチマの目抜き通りで、シャツを脱ぎ、ペトロフの屋外バーの客たちをまたも苛立たせながら、彼はこう語ったものだ。ディードラがどんなに腕のいい仕立屋だったか見てみろ――縫い目のあとがまったくわからんだろう。彼がその良い方の肩に想像の線を描くと、子供たちは目をぴったりと近づけた。それからもう一方の肩に目をやって、二者択一の結果を、異様な切断のあとを見た。


マイケル・オンダーチェ「ライオンの皮をまとって」福間健二訳 水声社 二〇〇六年一二月一〇日発行 五九〜六一頁
Michael Ondaatje, In the Skin of a Lion, 1987