(その七十八) Y

 Yは私の知り合いのなかでもひどく風変わりな男で、数ヶ月単位で取り組む研究テーマを変えては路上を徘徊していた。問題の探求にあたって、実証的なアプローチを図書館に籠もる学者の占有物にしてはいけないというのがモットーのYは、もっぱら読書や観察を喫茶店で行い、表通りが見渡せる席に好んで腰を下ろした(彼はそのテーマの性質上、実証的手続きと人類学者がいう「フィールドワーク」をまったく区別していなかった)。休日は三時間ほどコーヒー一杯で粘ったあげく、店を替えて同じ作業をくり返すのだった。金がない日は公園でまったく同じことをした。彼の選択するテーマは「犯罪と習慣について」という「犯罪白書」から安倍譲二の小説まで参照し、各種の統計を駆使しながら方法論を明示的に論述する学術的な体裁を取った真面目なものから、「都市伝説における語り部」(村上春樹論)や「新興宗教の勧誘に関する手練手管の比較」というルポルタージュ風のものまで、まことに多岐にわたった。彼はもっぱら研究を「ネタ帳」と呼ばれるB4判の薄い四〇ページほどのノートに書き継いでいた。会うたびにそれを茶色い合皮の使い込まれた鞄から取り出しては、「ようやく三十二冊目まで続いてね」と進捗状況を話してくれるのだった。(この数値は二年前のものであり、おそらく現在では五十冊くらいだろう)。個々の研究は独立していたが、それらを俯瞰する大テーマがあるらしかった。私がそれを尋ねても教えてくれなかった。まだ、それほど仲良くなっていないからだろうと私が思っていると、彼は穏やかだが意味深長な口調で、「それをしゃべるとお前も研究に加わることになるんだ。結局は、いろんな意味で」と言った。
私が最近Yに会ったとき、そのテーマは確か「素直に嬉しい」という言い回しがどのように生まれたのかを考察する、というものであった。このテーマは、以前「引責辞任」をめぐって考察した社会的な身振りの研究につながり、彼によると、「素直に嬉しい」という表現は文学作品や映画や劇作よりも、現実社会において初めて口にされたという意味では、ほとんどの造語や新奇な言い回しと変わりがなく、特徴的なのは、まったく伝播性がないまま孤立して発見される、ということだった。発言者は(1)若い男性がほとんどで、(2)独身で長期的に恋人がいなく、(3)独立心はないが孤立していて依存性が高く、(4)協調性を愛想笑いでごまかす人物に多く見られるそうだ。Yはそれを「群れから外れた草食動物の尻込みが、かえって別の目的物を発見させる」と表現している。この「目的物」は、特に珍しいものでも真新しいものでもない。最近の事例でいえば、「素直に嬉しい」という言い回しが突出して出現したのは、覚醒剤の所持と使用で芸能界を干されたふたりの女性が、バッシングを乗り越えて第二の出発を海外に求めた瞬間だという。この説明に対しては、いささか根拠が薄弱だと思えたが、Yは譲らなかった。
「この場合の『素直さ』は、もっぱらマスヒステリーに対する良心の抵抗として現れるんだ。もっとも、この言い方が不十分なのは承知している。まず、『良心』と言ったが、彼らは協調性がさしあたって道徳や規範の代替物となることを否定していない。日常的にはそれで支障がなくいっている。これは、あくまでも彼自身が協調性を乱さずに生活していると自分では思っている、ということで、現実にそうだとは限らない。そのことは、あのフランツ・カフカですら、役所の同僚との協調性を乱していないと自負していたことから考えても、単なる思い込みに過ぎない場合があるはずなんだ(これはもちろん能力の問題じゃなく、人間関係の問題だ)。逆に言えば、協調性とは、不器用さや単に孤独を抱えた人間にも、それをいっしょに円滑に運営しているという幻想を与えてくれる役目を持っているんだね。だけど、この幻想を破る――積極的に破るということではなく、集団を支配している協調性の範囲内で破る、という意識が例の『素直』という言い方に宿っている。そう、これは大変屈折した心情発露なんだ。だから、『抵抗』ではなく、あらかじめ失敗した『抵抗』という意味で、挫折した方法でもある」
 私はさっそく、反論を用意した。
「でも、以前誕生日に内緒でケーキを用意された男が『素直に嬉しい』っていってたよ」
「それは、おそらく反論というよりは俺の仮説を補強する例になるはずだ。なぜなら、俺の見立てでは、その男は普段から自身の感情を表立って発言することはなかったはずだからだ。というより、日常的に行われるコミュニケーションが、彼の心情発露を期待しているようには思えなかったはずなんだ。だから、それは裏返しの復讐でもある。彼は現にイベントによって強制された嬉しそうな顔をすることによって、つまり相手がまさに望んだ顔をしてみせることに、『素直』という余計なひと言を加えることで、それ以前の周囲の人々の対応に暗に批判を試みているんだ――さしあたりは誰にもわからないようなやり方で。嬉しがるのになぜ素直さが必要なのか、考えてみればすぐにわかるはずだよ。誕生日のサプライズが引き金になった、という意味で『抵抗』ではないとお前はいうかもしれないが、計画的復讐というのは、統計的に見てもそれほど多くはない」
 こうして私の反論はぴしゃりとはねつけられた。Yは、論証の整合性に関するかぎり、妄想症患者並みの鉄壁さを誇っていた。だが、そのY自身はよく前言を撤回した。それは、用語が不正確であったから、より的を得た用語に修正する、という言語訓練上の要請ばかりではなかったようだ。
「俺はさっき『抵抗』といい、『批判』といったけど、これは多くの場合自覚的ではない、という意味で、用語の選択は正しくない。威勢のいい批判者が現状維持の最も有力な推進者であることは往々にしてあることだけど、『素直に嬉しい』と口にする人々にもそれは当てはまる。つまり、自覚的であれ、無意識であれ、発言者は事態の改善を望んでいないんだ。彼は、ドキュメンタリーでよくある、ライオンが牙を研いでいるときに限って群れからはぐれる間抜けなシマウマみたいなもので、危機意識がそもそも脱落しているために、かえって群れの安全性の指針になることがある。そのとき、彼がなしうるのは敵を引きつけることだけで、よもや批判することではない。だが、現代のシマウマである『素直に嬉しい』と口にする男は――比喩を続けると――、襲い掛かるライオンに乗じて、安全な距離まで逃避した味方に一瞥を投げかけることがあるんだ。もちろん、この一瞥には自分を置き去りにしやがってという見当違いな未練も含まれているが、そればかりではない。そこに現れるのは、早すぎた死が芸術家にとってある種の天分の証しであるように、それが実際に訪れたという安堵でもあるはずだ。つまり、群れをはぐれるという事態が実際に訪れたという安堵感が、彼自身の本来の性質を実証しているようにすら思えるはずなんだ。だから逆説的にいえば、『素直に嬉しい』と口にする男は、実際にはそんなに嬉しいとは思っていないんだが、それにも関わらず、嬉しいと感じるんだ、彼自身の本来性が集団のなかにはないことを知ることによって」
 Yに対する私の危惧は、彼がそのつど研究対象にのめりこみすぎるということだった。私は彼の途切れない説明を聞きながら、ほとんどY自身の告白を聞いているように感じた。彼が前言を撤回するのは、はじめは彼とはまったく脈略のなかった研究対象が、彼自身にそっと近づいてきた合図のように私には思えた。その正確さは対象それ自体というよりは、あくまでもYの輪郭に合うように決められたものであった。私自身、人文科学的な研究の隅っこのそのまた隅っこにいたことがあるから分かるのだが、研究対象が不意に自分の人生における最も親密な問題意識に重なり合うのは、それはそれは甘美なひとときである。それがひとときしか続かないのもまた世の習いであるのだが、分析概念と日常的なものの見方というのは、それほど離れていないように私には思える(もっともこんな考え方だから、狭苦しい研究室は居心地の悪い告解室のように感じたものだった)。Yは臆面もなくそれを実行し、次々に興味の幅を広げた。実際、会うたびに職を変え、住まいも定めず友人の部屋を泊まり歩き、ただ自分の好きなことばかりしている、と照れくさそうに語るYは、確かに魅力的であった。私が危惧といったのは、いくらかは嫉妬心が含まれているのかもしれないが、そればかりではない。私もまた好きなことばかりしているという意味では彼の人後に落ちないはずだったが、必ずしもその境遇に満足しているわけではなかった。彼が研究対象にのめりこむ地点で、私は早くも引き返すことばかり考えていた。私にとって重要なのは、自分の興味の線上で研究対象がその堅苦しい姿勢を和らげ、自分に最もよく理解できる表情を向けて微笑んだときではなくて、それが無惨にも崩れた瞬間であった。私はどれだけ思慮を尽くした自分の考えであっても、それが単なる思い込みではないという不安を拭い去ることはできなかった。私は満足というものをついに知らなかった。だが、このずれこそが、私を惹きつけるすべてであった。だから、Yが興味の対象を次々に変えるのと、私が同じようにそうするのとではまるで意味が違う。Yは優秀な仕立て屋であったが、私はサイズの合わない古着ばかり漁っては着ていたのだ。そして、社会のあぶれものという意味でわれわれは似たもの同士であったのだが、私自身は「素直に嬉しい」とつぶやくような人間には死んでもなりたくないと思っていた。Yの説明を聞きながら、いよいよその確信を強めた私は、しかしここにはある種の誘導が働いているのではないかと勘ぐった。Yは、群れからはぐれる微温的な孤立者が増えることを、暗に望んでいるらしい口振りに変わりつつあったが(彼の感情移入の並外れた力技によって)、私はそんな連中と同じにされるのはまっぴらごめんだった。かといって、私は群れの人間ではない。では、私はどちらの側か。こうした二者択一が迫られると、どうしても口が滑ってしまいそうであった。だが冷静に考えると、シマウマの喩えは不正確に思えてくる。端的にいえば、群れからはぐれる、という言い回しは、その比喩がわかりやすいほどには現実に適応していない。つまり、はぐれるのは「群れ」からとは限らないのだ(同様に、群れからはぐれた先は孤立あるのみとは限らない。多くの場合、そこには別の群れがあるだけである)。だが、それをどのように説明したらいいのかわからなかった。Yと会話をしているあいだは、なにかもやもやした感じが続き、私は沈黙していただけだった。
「Yがそうやって自分の好きなことを続けているのは嬉しいよ、素直に」と私はようやく言った。皮肉が混じっていなかったといったら嘘になるが、なにを皮肉ろうとしたのかは自分にもわからなかった。