(その九十三)ロベール・デスノス

 ミロとマッソンの傍らで、ロベール・デスノスは〈目覚めたお寝坊さん〉の生活を送っていた。仮眠状態で物を書く彼の才能は友人たちを面食らわせ、魅惑した。彼はどこでも眠れるようになり、彼を目覚めさせるために医者を呼びに行かなければならないことも何度かあった。彼は自動記述法により眠った状態のまま、猛スピードで言葉を書き連ねたものを、目が覚めたとき整理し、すばらしい詩に構成した。きわめてエロチックなものが多いが、シュルレアリストの書いた詩のうちでは、もっとも感動的な作品である。リブモン=ドセーニュによると、後にアメリカ軍に解放された直後、チェコスロヴァキアのテレジエンスタットの強制収容所チフスで死ぬ前、デスノスは「あれは眠っているふりをしただけさ」と告白したという。ということは、ついに誰も彼を覚醒させることができなかったということだ。しかし、いずれにしても不思議な霊力に満ちた彼の詩が残されていることには変わりがない。そして彼が、ユキに対する遺言ともいえる、つぎのような詩を書いたのは眠りながらではなかった。

   私は絶えず君の夢を見た、
   私は大いに歩き、大いに語った。
   君の幻影をとても愛した、
   だから、もう私には君が何も残っていない。


ジャン・ポール・クレスペル『モンパルナス讃歌 1905〜1930』佐藤晶訳 美術公論社 一九七七年一一月一日発行 二三二〜二三三頁


 ロベール・デスノスの詩が負っているのは、シュルレアリスムの基本的な要素(自動筆記、夢の連想、エロティシズム)というよりは、きわめて古典的かつ正統な観想的態度である。デスノスの実生活を解説する手段として、奇矯な振舞いに関する挿話は依然として欠かせないとしても、彼が本質的にシュルレアリストである所以はその復古の姿勢、すなわち、彼が独特なかたちでストア派の思考をよみがえらせたことにある。古いもの、失われたものをこの世界に召還すること。アンドレ・ブルトンにおいては「魔術」と呼ばれたこの方法は、デスノスにおいては観想を恋愛詩に持ちこむことによって生じた。エピクテトスからつらなる意識の作用の要点は、「君」ではなく、知覚された「君」、すなわちその時その場で生じる「印象」を扱うことによって、私という人間の外にあるものにとらわれないことにある。ストア派が発見したのは、「君」というものは「私」の外にある存在であるが、「君」という実在の対象そのものではなく、「印象」を操作する者が「君」の夢を見、その世界を歩き、大いに語る行為そのものに意識を集中することによって、「現実に触れずに精神を用いる」技術である。目のまえにある現実は依然として存在しながら、「君」は「私」の外にあり、かつ「私」の内にある。実在を括弧に入れてしまえば、「私」の内にある「君」はまったくその親しみを失わない。その瞬間、「君」に変わって、「君を思う意識」が取って代わる。思われた「君」は「私」を脅かしうるような脅威を脱ぎ去り、その「本質」だけを所持する。このように「思い出」となったとたんに逃げ去るような愛の形式においては、「君」を思い起こすために記憶は必要ではない。なぜなら、記憶が蓄積され呼び起こされるのは、経験を再帰させるためではなく、ひたすら「印象」を補強するためだからである。こうして、「印象」の強度は知覚の対象をすり減らしながら純粋な昇華の段階にいたる。ロベール・デスノスが記述したように、その後にいたるのはまったくの忘却、というよりは、実在の代用物としての無そのものである。無はひとときの救済をもたらす。少なくとも、執着と幸福からの解放を指し示す。この一連の記述、すなわち、恋愛感情のはじまりというよりはむしろ終わりに似通った感覚のなかでは、ひとときの救済は実在のものではない。ストア派はこの精神の志向性を文字通り意志のなせる技としたが、デスノスは睡眠のなせる技とした。ジャン・ポール・クレスペルが記述したように、デスノスは好きなときに眠ることができたし、眠ったままペンを動かすことができた。