(その八十八) ブルーザー・ブロディ

 ブルーザー・ブロディが「キングコング」の異名をとるようになったのは、WWWFに参戦していた頃に撮られた一枚の写真がきっかけだった。それは、スタン・ハンセンやホセ・ゴンザレスらとともにアメリカ東部を巡業中に撮った写真で、ポーズを決めるブロディの背中には、見慣れたキングコングのポスターが写っていた。
 レスラーが売りこみを目的として撮る写真は、レスリングスタイルや流動的な戦績よりも、眼につきやすい凶器や身体的特徴が強調された。イメージが優先されるヒール稼業にとってはなおさらだった。この手の写真はプロモーター宛に経歴書とともに送付されることもあれば、勝敗を予測する地方新聞の紙面を飾ることもあれば、破られた雑誌の一ページとして興奮しやすい少年の部屋の壁に貼られることもあるのだが、重要なのは、十分に過激すぎないことだ。過激すぎてしまえば、それだけで満足してしまう。演出の意図は、レスラーが待機の状態にあることを強調する。待機はどこにも行き着かない。威嚇であれ攻撃であれ、その対象となる敵がそもそもにおいて存在しないからだ。カメラ目線のレスラーはすごんでみせるのだが、往々にして頼りなく、孤独である。全身写真であれば、この印象はもっと強くなる。リングサイドで撮影された、必殺技の途中で不動の姿勢を保つ写真と好対照をなすのは、完結した仕草に宿る徹底した無意味さだった。熟練の格闘家のファイティング・ポーズとは違う、プロレスラーだけが魅せるうさんくささは、この自己演出的な気分のうちに見いだすことができる。肉体そのものが商売道具であるレスラーにとって、年齢や体重の増減は大きく下馬評を左右することはない。写真はただ隠し立てすることなく肉体をさらけ出す。だからこそ、肉体はイメージであり、イメージは肉体だった。
 のちに日本のリングで「超獣」と呼ばれるようになったブロディがギミックを作り出すために選んだのは重い鉄鎖で、両腕を広げたブロディの太い親指を見れば、長くごつごつした鎖には何通りもの使い道があることが察せられた(マットの内と外で、実際に凶器は何通りにも使われることになった)。エンパイア・ステート・ビルに登るキングコングと、金網やランバージャック・デスマッチをこなし、流血戦をものともしない二メートル三センチの強面の男との構図は、そのシンプルな共鳴性ゆえに迫力があった。この写真を撮らせたのは、あのビンス・マクマホン・シニアである。
 一九七八年七月二九日にブルーザー・ブロディセントルイスレスリング・クラブに初参戦したとき、ラリー・マティシクが「キングコング」のニックネームを提案した瞬間には、ふた通りの意味があった。まず、ディック・ザ・ブルーザー・アフィルスとの名義上の混乱を避けるためである。ディック・ザ・ブルーザーは、この当時ですでに五十の歳を迎えていたが、生傷男の俗称そのままのラフファイトを展開し、そのあまりに危険な試合運びからニューヨーク州では永久にレスリングをすることを禁じられていた。トップコーナーから相手を踏みつけするアトミック・ドロップを必殺技としたメインイベンターのディックは、興行面でもインディアナポリスのプロモーターを兼務していた。プロモーターが試合の采配を決め、プッカーが試合の流れを演出するのが当然だった世界においては、プロレスラーがすることはただひとつ、決められた試合運びをすることだけだ。たとえ、ブロディのほうがずっと強くて、セントルイス以外の地域でディックを破ったことがあったとしても、その地域の花形は立てなければいけない。したがって、「キングコング」の異名を冠することには格式上の配慮を受け入れるという儀式的側面があったわけだが、それだけではなかった。リングネームは文字通り彼自身になっていった。フランク・グーディッシュという本名がブルーザー・ブロディというリングネームに駆逐されていくように、プロレスが彼の使命にまでなったのは、イメージに的確な名称を与えられた瞬間からだった。
 アメリカンフットボーラーがプレーオフに小遣い稼ぎでマットに上がるのが珍しくなかった時代に、彼もまた名声を求めて勝負の舞台を移した(ウェスト・テキサス州立大学のアメフト部には、スタン・ハンセンも所属していた)。必要なことは、すべてリングの上で学ぶことができた。フリッツ・フォン・エリックにレスリングのいろはを習い、バック・ロブレイにブッカーとしての演出法を学んだ。頭角を現したブロディに必要なのは、レスリングの技術だけではなかった。キャリアを築くことに飽き足らないブロディは、手にしたファイトマネーでその日暮らしに生きるしかないほかのレスラーのようにはなりたくなかった。貯蓄という発想のない一人やもめや外人のレスラーは、鍵がついたアルミニウムのロッカーなどというまことに危険な場所には貴重品をしまっておくことができなかったので、日当でもらう金を肌身離さず持ち歩かねばならなかった。手にした二〇ドルや五〇ドル札は溜まるとすぐ一〇〇ドル札に換金した。試合中は札束をパンツやシューズのなかに隠さねばならなかったからだ(札束はよく動いたから、何度も股間に手を当てて位置を確認しなければならなかった)。この極めて原始的な私財の保存法は、彼らの金銭感覚にも影響を与えた。文字通り彼らは多くを求めなかった(ありすぎると邪魔になり、適当に使い果たさなければならなかった)。だが、ブロディが考えたように、最初に提示されたギャランティーで納得するのはばかのすることだった。参戦料を徴収したりファイトマネーをピンハネしたりするプロモーターはざらにいたし、移動の多い生活はとかく不安定だった。資産運用を始めたのは、リング・アナウンサーのボイド・ピアスのすすめがあったからだが、またたく間にのめり込んだマネーゲームにかんする知識は、プロモーターから見たレスラー(商品)の価値を洞察する機会を与えた。それに、特定の地域や団体に長く留まらない彼にとって、金の使い道はもっとも早くから身につけねばならない渉外活動のひとつだった。払いを待つのはスーツを着た会社員のすることだが、プロレスラーは違う。彼は最初に賄賂の渡し方を知り、ついでだれに渡すべきかを学んだ。そして、どの場面で袖の下を渡すべきかを彼が見誤ったことはなかった(ときには、ゴングが鳴って凶器のパイプ椅子を振りかざした直後にささやかれることもあった)。金のやり取りは、お互いの立場をはっきりさせるのに役立つだけでなく、また、試合前の秘密の口裏合わせに有無を言わさず従わせる担保になるだけでなく、(額を多めに見積もることで)なされた行為に私怨を持たないことを約束させる口実にもなった。ブロディは、これからすることの対価を支払ったに過ぎない。たとえ、彼が口裏合わせをしたあと腕の力を全く緩めなかったとしても、それは許されるべきだった。金を支払ったのは、鉄パイプの振り下ろされる痛みではなく、その痛みの値打ちに対してだったからだ。各地を転戦しながらなんども実力のないレスラーと肌を合わせた経験は、はじめのうちは彼を増長させた。口先だけの男もいれば、七十歳を過ぎてなお現役の男もいた。ブロディは早くから実力を認められ、「客を呼べる男」だとお墨つきも得ていたから、取るに足らないと思える選手はさぞかし多かったことだろう。それでも、そうした選手たちはどこかへいなくなってしまうわけではなかった。彼らもまた日頃の練習を欠かさず、患部に痛み止めを打ち、ロッカールームに家族の写真を貼っては仲間に見せびらかし、賃金交渉を忘れず、つねに闘いつづけていた。もう強くなるという見こみもなかったが、彼らはいつまでも現役だった。だから、驚きとともに受け入れなければならなかったのは、強い者だけがリングに生き残れるわけではないという、海千山千の猛者が集うプロレス業界にとってはありきたりな事実であった。もっとも、ブロディが彼らを視界に捉えたのは、自分の試合に関係する場合に限られていた。学ぶべきものがなにもないのなら、なぜ立ち止まる必要があろうか。レスラーにとって、忘れられることはなによりも辛い。だが、忘れられてなお闘いつづけるのはもっと辛いだろう——彼が考えたのはせいぜいそこまでだったに違いない。あくまでも、身に沁みない話。闘うことは盗むことだと考えたブロディにとって、盗むべきタイトルも技もモーションもない人間は、そもそも用済みだった。のちにディック・ザ・ブルーザーと“ブルーザー”の名称をかけて勝ち取ったように、彼の持ち技の多くは敗者の屍からはぎ取られたものだった。勝利が権利を譲り渡し、観客の声援が正当さの証となった。こうしてブロディの強さは、弱さにつながるものを徹底して排除することで培われていった。
 芽の出ない時期に、ダラスの埠頭で沖仲仕をしながらいやというほど感じた。沈むものはとことん沈む。やがて浮き上がるときは、死体になったときだ。飛びつづけるためには、羽根がいる。興行収入に結びつくのは、実力ではなく、人気である。人気のある選手には、羽根がある。イメージが駆り立てるのだ。血を多く流したときほど強く実感できる。プロレスは痛みだ。痛みはイメージだ。観客には伝わる。うめきとともに、血のしぶきとともに。キング・カーチス・イアウケアが、アブドーラ・ザ・ブッチャーが、流血のタイミングを教えてくれた。怒号はすぐに返ってくる。女たちの悲鳴のあとで。ブロディはカミソリをバンテージの裏に隠すことを好まず、口に含んでいた。舌先に感じるひんやりとした鉄の感触が、ひたすら血を求めていた。流血に染まる試合では、観客の反応が格段に違った。会場の照明が赤くにじむとき、もっともブロディは興奮した。痛みではなく、そのイメージの自在さに。——「キングコング」の異名は、彼の必殺技を引き立てるのに役立った。キングコング・ニー・ドロップ。フォール。3カウント。
 八〇年代前後において、ブロディの野心と人気はしっかりと歩調を合わせた。おまけに、彼はしたたかだった。プロレスをまずビジネスとして考え、興行成績の予想から戦略を組み立てる。「ブルーザー・ブロディ」というキャラクターをどう活かすべきか。彼のプランがブッカーやプロモーターと抵触したら、断固として理を貫き通す。彼の考えは絶対だった。自分で納得することはあっても、他人に納得させられることはほとんどなかった。ブロディの唐突に終わったその短い生涯において、必殺技をいくらも持ち得なかったのは、彼がそれを欲しなかったからだ。大技は繰り返してはいけない。回数を重ねれば、ダメージにかかわらず観客にはマンネリ化する。二十発の蹴りを入れても、相手の耐久力をアピールするだけだ。ここぞというときに決めればいい。こうして彼の技は鍛えられた。一発の精度をひたすらに磨くこと。ブロディのパイルドライバーやドロップキック、そしてフィニッシュ・ホールドのニー・ドロップは、そのような要請によって磨き上げられた。その意味でブロディは群を抜いてストイックだったし、巡業中は食事に気を使った(ツナにグリーンピースの質素な食事)。プロレスラーである以上、自分の生活よりも、自分のイメージを優先した。
 彼の職業意識は同業者から尊敬されたが、同時にあまりに取りつく島がないように思われた。相手選手を引き立てるセールが苦手。ブックになかった奇襲攻撃。賃金の釣り上げ要求が失敗すれば、平気で試合をボイコット。ブロディの楽屋内にかんするうわさは耐えなかった。なかには彼を貶めようという悪質な嘘もあっただろうし、細部を誇張した風評もあれば、本当の話もあったに違いない。サンアントニオの興行で行われた、メインイベントを張った試合で対戦選手とヘッドロックをしたまま三〇分近くなにもしなかったのは、ギャランティがほかの出場選手と大差ないことに対するプロモーターへの抗議を示すためだった。
 人生において、ブロディは闘うことを選んだが、それは金のための闘いでもあった。同じ負けだったら、反則負けを選んだ試合もかなりあった。そのほうが「無敵のブロディ」という評判を傷つけないで済む。フロント陣との絶えない揉め事の大部分は、試合報酬が契約で提示された額に満たないために引き起こされた。ブロディの人気を落とそうとする策士も現れたが、結局は団体の客入りを悪くしただけだった。プロモーターがマッチメイクを決める基準と、ブロディがマッチメイクに口を出す基準は当然のように違っていた。彼は体調を管理するように、人気を管理したがった。それを担う適任者は自分をおいてほかにいないと思った。フィニッシュを知っているのは自分だけ。そこまで突っ走る力があるかぎり、止められる人間はいない。リングの上にいる者だけが、すべてを決められるのだ。
 レスラーになる以前にフットボールのコラムを専門に書く記者をしていたブルーザー・ブロディは、「ケーフェイ(業界内での暗黙の掟)」や契約を巡るいざこざを書きたてられることにたいして、ひじょうに寛容な態度を示した。出場した試合のテレビ収録が録画されたかどうかを確認し、全国放送の番組がまだなかった時期には地方局のレスリング番組にも顔を出し、ケーブルテレビが始まったばかりのアトランタに何度か出向いたほどブロディは自身の知名度に気を使っていただけに、仲間内では意外に思えた。「ケーフェイ」は隠すべきではないのか。知らないからこそ、観客は熱狂することができる。プロレスという競技の魅力は本気と演技の中間に宿り、試合の流れの統制ができてこそ興行として成功する。プロレスは格闘技ではなく、あくまでもショーなのだから——。だが、ブロディの考えは違った。金のために一生闘うことを義務づけられた男には、ブルーザー・ブロディのイメージはどこにでもついてまとった。リングの内でも、リングの外でも。素直にプロレスに心酔する人間もいれば、“でっちあげ”を疑ってかかる人間もいたし、業界のなかにも取り決めを承知している人間がいれば、知らない人間もいた。目盛りになにを読みこむかは別として、プロレスラーが浴びるさまざまなイメージには確かな深度の違いがあった。したがって、単一の役柄を徹底することは、そもそもにおいて不可能である。ただひとつ、無敵という称号をのぞいては。そう考えたブロディは、契約に関する話をさらけ出されることを拒まなかった。マットだけが勝負の世界ではない。プロモーターとの金銭争いは、彼の傍若無人な評判に合致したし、ブッカーのシナリオを書き直すことは、演技としての迫真さを増した。あごで使われるのはごめんだった。出会い頭に闘いは始まっていた。対戦相手だけが敵ではなかった。ビジネスとして考えれば、敵はいたるところにいた。見くびられないために、あらかじめ駆け引きの種を仕こむこと。ブロディがゲーリー・ハートに頼んだのは、NWA会員の連絡先が載った名簿だった。名簿はブッキングの基礎であり、聖典である。出場契約の条項も自分で作成した。商売相手に煙たがられもしたが、人気が彼らの口を塞いだ。借りを返さない彼ではなかったから、一時しのぎの稼ぎを手にした男たちは脅える夜を過ごすことになった。なにしろ、相手はあのブロディだったのだから。リングの上の血に餓えたインテリジェント・モンスター。リングの外の冷徹なビジネスマン。——イメージで自分を覆いかぶすことは、ブロディのもっとも成功した戦略だった。プロレス界の内輪もめを好んで記事にすることで知られた『レスリング・オブザーバー』のジャーナリスト、デーブ・メルツァーと意気投合したのは、プロレス業界に巣食う慣習の闇にたいして真実をつまびらかししようという思惑からではなかった。ポーカーでの鉄則は、捨て札を残すこと。愚にもつかない法螺話を否定しなかったのは、それにもイメージとしての寿命があり、活用の道があったからだ。ジャーナリズムの金言は、プロレスにおいてもまたあてはまった。正当な論調よりも、大げさな見出し。そして、大げさな見出しよりも、意表を突く無意味さ。正当なプロレスは味方を作り、大げさな身振りは期待を煽るが、それだけでは足りない。味方しか引きつけられないからだ。もう半分の影の存在である敵を巻きこむためには、意表を突く無意味さがいる。その行為をくさびに会場の声援と罵声をまっぷたつに切りわけるような、だまし討ちの手管。ブロディの人気が飛躍的に上がったのは、この第三の要素の重要性に気づいたからだ。根っからのファンは、ブロディの姿を見たいがために会場に詰めかけ、毛嫌いする者は、ブーイングの繊細なタイミングを要求されるために、やはり会場に詰めかけた。ブロディが声援に応えているように見えることが、怒声を大きくさせ、逆にブーイングに応えているように見えることが、ファンを嫉妬させた。ブロディをベビーフェイスでもヒールでもない独特のポジションに押し出したのは、ジャーナリズムの金言——編集者は読者を怒らせさえすれば、投稿する読者が紙面の半分をただで書いてくれる——にプロレス演出上のアレンジを加えたからにほかならない。
 ブロディにとっての分岐点は、ふたたび彼がキングコングとまみえた瞬間だった。ラリー・マティシクがセントルイスレスリング・クラブを独立して新団体を設立したとき、ブロディは盟友スタン・ハンセンを紹介し、ルー・テーズスペシャル・レフェリーに立てた。地元のリングアナウンサー、ミック・ギャラジオラを雇うことに成功した団体は、重鎮フリッツ・フォン・エリックとの接触を通じて『ワールドクラス』を放映していた系列のUHFテレビ局KDNLから番組枠を獲得した。だから、ブロディがテレビ用のスポット撮影にのぞんだのは、ごく自然な流れだった。かつてビンス・マクマホン・シニアの提案で、エンパイア・ステート・ビルによじ登るキングコングのポスターを背景に写真を撮ったブロディは、いまや「キングコング」の異名をしっかりとものにしていた。今度は彼自身がキングコングの立場で、会場のチェッカードームのひさしの上に設置された桟敷席まで登った。ドクロ島から大都会に連れこまれたキングコングがアン・ダロウ(フェイ・レイ)を抱きかかえていたように、アンジー・ワーナーという名のブロンド娘を片腕に抱きかかえて。キングコング・ブロディは、意気揚々と次週に迫った対戦カードを読み上げた。ちぢれた長髪を振り乱し、雄叫びを上げながら。その瞬間、ブロディはキングコングそのものになった——。
 この宣伝は見事に成功したが、それまでのレスリング団体が乱立する状況にあらたな変化が起きていた。一九八四年は全米のプロレスにとって記念碑的な年である。ビンス・マクマホン・ジュニアは、父親から株式を分割契約で買い取り、WWF(現WWE)の社長に就任した(譲渡ではなく買い取りだったのは、父親との不仲という説が有力である)。それまでだれも成し遂げえなかったこと、すなわち、アメリカ・レスリング界の統一を画策していた。ジュニアが新団体を設立したばかりのラリーに手を組まないかと提案したのは、共同経営者としてではなくて、雇用者としてだった。ブロディがWWFに参加しなかったのはなぜなのか、憶説はあるがどれも決定的な主張に欠ける。だが、確かなことがひとつだけある。それは、この時期からブロディにツキが落ち始めたことだ。ギミックにかんするアイディアには事欠かなかったし、ウェイトリフティングを課した肉体はすばらしい仕上がりをみせていた。額の皺を歪ませる傷痕の生々しさは、息を飲むばかりに美しかった。タイトルマッチに彼の存在を外すことはできなかったし、どんな会場でも彼は暴れた。ブロディに現れた明らかな兆候を読み取ることができたのは、ごく数人の親しい友人に限られていたし、その意味するところを知るためにはあと数年の歳月が必要だった。プロレスラーとしてのブロディを演じ切るという当面の作戦は成功しているように見えた。それは、成功しすぎていたくらいだった。だから、彼が本音を吐いているように見えたのは、それが親密な告白という形式で行われたからであり、何気ない会話の断片が告白に聞こえざるをえなかったことは、まことに彼らしいともいえる。よどみない台詞に確かに感じとれる自己顕示欲と虚栄心の混合が、いつもの自信にあふれた彼の主張の懐かしさと異なる響きを持っていたことに、口にしたブロディ本人よりも先に気づいてしまった仲間は思わずはっとしたことだろう。目の前にいる人間は、確かにブルーザー・ブロディと呼ばれている男だった。だが、以前の彼とはどこか違っていた。彼にみなぎっていた自信は影をひそめ、肩をそびやかして歩く姿はぎこちなかった。彼には覇気がなくなっていた。もっとも印象的なエピソードはラリーが紹介している。何気ない会話。息子のジェフの話。ジェフが学校で書いた作文には、「もしパパが旅から帰ってこなかったら僕とママはどうなるんだろう? きっと悲しいだろうけど、乗りこえなきゃいけない。だって、それがパパの望むことだから」と書かれている。ブロディは、いや、家庭を持つひとりの男であるフランク・グーディッシュは、成長する息子のたくましさに満足する。いったんは。それから背中に寒気のようなものを感じる。最愛の息子ですらそうなのだ。吐き気がしたが、なにも出てこなかった。イメージがひとり歩きしていた。息子が見ていたのは父親のフランク・グーディッシュではなかった。息子はひたすら幻影を追いかけていた。リングの上だけの、彼の姿を。気がついたら、彼はどこにもいなかった。
 驚くことに、ブルーザー・ブロディの強さのボルテージは、自信が揺らいでからもしばらくは上昇しつづけた。日本での知名度は高く、鎖を振りまわす彼の形相に怖気をふるう観客は、あたふたとパイプ椅子のあいだを逃げ惑った。彼の戦闘スタイルはいよいよ洗練され、全日本プロレスでスタン・ハンセンとコンビを再結成したときは、「超獣コンビ」と恐れられた。ブッカーの指示に従わないのは相変わらずで、マッチメイクに積極的に関わろうとする姿勢も健在だった。試合の勘も衰えていなかった。思案に暮れたように会場を見回す独特の風貌は、観客にとっては、この明るいマットの上では見せることのできない凄惨なフィニッシュ・ホールドを狙っているようにもみえたかもしれない。たとえそれが錯覚だとしても、イメージは彼に張りつき、彼を離さなかった。彼は現にそのようにしたかもしれないし、そうしなかったかもしれない。かつての威勢が虚勢に変わったのはなぜなのか、私にはわからない。自分自身に飽きた? 人生を見直す時期にさしかかっていた? おそらくはそんな簡単な話ではあるまい。思い出すのは——ブロディの毛皮のブーツ、あの巻きつけられた野兎の毛皮のことだ。ブロディが本名でデビューしてまだ間もないころ、いくら鍛えても太くならない脛を気にしていた彼は、ピート・オルテガの提案でリングブーツに野兎の毛皮を巻きつけることにした。鏡に写すと、いっそう逞しく見えた。ブロディは以後、つねに脛に毛皮をまとって試合に出ることになる。ヒューストンのレザー店であつらえた、あの野兎の毛皮——。さかのぼればいくつかの原因は見つけ出すことができる。あんなに大きな男が弱気にかられることなどあったのだろうか? あるいは。もしくは。それは乗りこえたものではなく、覆い隠したものにすぎなかったのだろうか? ふり捨てたはずの弱さが、円熟期の彼の背中にぴったりと張りついてでもいたのだろうか? 大昔、ダラスの埠頭で感じた印象そのままに、彼の洞察は彼の行き着く先を正確に照らし出していたとでもいうのだろうか? 港湾荷担をしていた若い男、まだキングコング・ブロディとも名づけられていないその男は、南米からの積み荷の屑紐が漂う波頭を見つめながら考えた。沈むものはとことん沈む。浮き上がるのは死体だけだ。そう、それに弱さも。その解釈のつけ足しに晩年の彼が納得したかどうかはわからない。おそらくは納得しなかったに違いない。次第にイメージの先行は手なずけられないものになっていったが、彼は荒馬を乗りこなすように自分と闘いつづけた。闘いは彼の肉体を疲弊させていった。長年バックドロップを放ち続けた彼の膝と腰は、痛み止めを打たないと保たなかった。試合のあとは、全身が悲鳴をあげる。アイシングの甲斐なく痛みつづける肘を忘れるために、マリファナに手を出した夜もあった。医師には関節の手術を勧められていたし、麻痺した指は開かなくなった。七〇年代の後半からステロイドを打ち始めたのは、アンドレ・ザ・ジャイアントを筆頭とした巨大なレスラーたちに対抗するためだった。確かに筋肉増強剤の常用は痛みの回復を早めもしたが、代償に想像を絶するめまいと吐き気に襲われた(七九年の日本遠征から帰るジャンボの機内で卒倒していらい、彼はその使用を止めた。薬物使用の弊害が問題視されるずっと以前の話である)。それでも肉体にたいするあらゆる延命措置を行いながら、ブロディは試合に出ることを決してやめなかった。出場をキャンセルして困るのは、プロモーターよりもレスラー自身なのだ。
「人前では、自分の役割を果たさないといけない。俺を知っている誰もがそれを期待しているんだから」
 ブルーザー・ブロディは、八八年七月十六日、遠征先のプエルトリコのバイヤモンで、ホセ・ゴンザレスに刺殺された。控え室のシャワールームにはおびただしい血が流れ、腹部には鋭利なナイフで複数刺された裂傷があった。のちにその惨状を知った人間は、アスピリンの服用が致命傷につながったと診断したが、もっとも事態を手遅れにしたのは、現地警察や救急隊がすぐ事件に対処しなかったことだった。客商売の彼岸にいるにすぎない彼らは、プロレスによくある客寄せの流血ショーだと鼻をくくっていた。翌十七日の午前五時四〇分、フランク・グーディッシュは息を引き取った(享年四二歳)。原因は金銭トラブルとも、試合運びの話し合いがもつれたとも、情緒不安定のすえの犯行ともいわれている。あんなに用心深く、本心をさらけ出したことのない男が、もっとも無防備な状態で殺されたことは、彼をよく知る者にとってはにわかに信じがたかった。ブロディの妻のバーバラが現地に到着したときには、ブロディのからだはすでに死体安置所に置かれていた。バーバラはガラス越しに夫の亡骸を眺め、検察官から書類にサインを求められた。対面はそれだけだった。慌ただしく葬儀の運びとなったが、火葬用の木棺は、ブロディのからだにはどれも小さすぎた。その数日後に検察官との話し合いがもたれたが、ここはプエルトリコと呼ばれている世界でもっとも無法な国のひとつであり、公正な裁判が行えないことをあらかじめ言い含められた。実際にバーバラに審理の日取りが知らされたのは、すでに審理が終了したあとだった。裁判が開廷したとき、事件現場にいたはずの証人には出廷通知が届いておらず、検察側の証人として出廷したのはブロディを看取った医師だけだった。医師たちは、臨終のまえに聞き取ることのできたブロディの発言を報告したが、伝聞内容であることから証拠として取り上げられなかった。ゴンザレス側の弁護士は、大学のアメフト時代までさかのぼって、いかにブロディが諍いの絶えない人物だったか論評し、そのいくつかは証拠として受け入れられた。弁護はあらゆる手を尽くした。凶器の不在。不特定多数の出入り。目撃証人の不在。情状酌量。正当防衛。
 犯人と目されたレスラーは、こうして無罪を言い渡された。
 あの運命の七月十六日、被疑者のホセ・ゴンザレスは事件のあと簡単な聴取を受け、ふたたび会場に戻ってリングに上がった。ホセは地元出身のレスラーでメインイベンターだったが、上背がなく、“ちび”のあだ名で通っていた。ブルーザー・ブロディがもっとも軽蔑した、この先強くなる見こみもない、小手先だけの男。