(その八十九) アンドレ・ザ・ジャイアント

 ときに神話はその古めかしい外皮を破り、瑞々しいユーモアをたたえて現実に姿をあらわすことがある。伝説がさまざまな尾ひれをつけたために、ひとりの大男はきこりの姿に身をまとい、フランスのカンタブリカ山中で孤独に斧を振りまわす。大木が倒れるたびに地響きが鳴り、大男は一日で一〇人分以上の仕事をこなした。噂に引き寄せられる役を引き受けたのは、オリンピックの体操選手からサーカス団の怪力男を経過しプロレスラーへと転身したエドワード・カーペンティアではなく、現実を覆いつくすほどの実在感をもたらす梶原一騎の魔法の筆は、その一振りで舞台におあつらえ向きな片眼鏡の老紳士に塗り替えてしまう。林道を走る車の前方からさっそく地鳴りが轟き、山の輪郭をつくる背の高い樹々が次々に倒れ始めた。運転手はエンジンを止めると、助手席の老紳士と顔を見合わせる。根方に腰を下ろす男のもとには、木漏れ日が射しこんでいた。男はワインの瓶を傾けると、後ろに放り投げた。瓶が砕ける乾いた音がする。男が立ち上がったように見えたのは気のせいだった。男は膝を揺すって笑っていた。ふいごのように腹を波打たせる野太い笑い声は、あたりの木の葉を残らず振動させた。座ったまま笑い転げる男を、老紳士は見上げねばならなかった。素性はまったく分からない。ただひとつ明らかなのは、男が途方もなく大きくて、素晴らしいレスラーになるということだった。魔法の時間が終わるとそこはカンタブリカの山中ではなく、書き割りの風景がふたつにぱっくりと割れると、舞台はさまざまな家具が並ぶマレー地区の代わり映えのしない倉庫で、片眼鏡の老紳士は空気がしぼんだように消えてしまう。巡業中のエドワード・カーペンティアが声をかけたのは山中に突如出現した化け物の木こりではなく、ジャン・フェレと名づけられたのっぽの男でしかない。最盛期で七フィート四インチ(二二三センチ)、“モンスター・ロシモフ”のリングネームでデビューした一九歳の当時で一四〇キロあった体重は、晩年には倍の三〇〇キロ近くまでふくれあがった。アンドレ・ザ・ジャイアント。対戦相手は彼を見上げただけで首を痛めた。
 キラー・カーンこと小澤正志が伝えているところによると、一九七五年に新日本プロレスがブラジルへ遠征する機上で、アンドレのあまりの大きさに驚いた乗客が、「お前はいったい何者だ」と訊ねたという。アンドレは飲み干したビールを置いた。この手の質問にはいつもうんざりしていた。「ジョッキーだ」とアンドレは適当に答えた。乗客は、バナナの房のような大きな手を眺めながら、「なんだと、お前が馬を担いで走るのか」と言った。アンドレは失礼な乗客の巧まざるユーモアに腹を揺すぶって笑った。このあまりにも有名な話にはつづきがある。小澤がアテンダントにビールを注文すると、女はアンドレの方をを指差して、機内のビールがすっかり底をついたことを知らせた。
 アンドレの酒量をめぐる伝説は数えきれないほどある。アンドレが酒を手にしていないときはなかった。明示的に数値化されたもの――北海道のサッポロビール園における大ジョッキ八九杯、フロリダ州のタンパ国際空港でビール瓶一〇八本、すすき野で一五〇本、ペシルベニア州のホテルバーで三〇〇本以上――から、継続的なもの――バス移動中から座席の下のワインを飲み始めたアンドレは、試合前の控え室で一ダースを空け(ビールなら二〜四ケース)、試合後にまた酒瓶に手を伸ばした――、もしくはアルコールが肉体的変調をもたらさないこと――日本酒を二升飲んだあとに軽トラを持ち上げた――や、気前のよさを示すもの――後輩のレスラーを誘うときは、必ず相手の勘定を払うだけでなく、店のほかの客の分まで払った――、それに排泄にかんするもの――バスで尿意を催したアンドレは、圧縮式のドアを片手でこじ開けると、その場で勢いよく放尿を始めた。おり悪く二車線の隣にはカップルが乗った赤いスポーツカーが停車していたが、アンドレのすさまじい尿の軌道は赤い車をらくらく飛び越した――まで枚挙にいとまがない。とにかくアンドレは豪快だった。酒をよく飲んだように、アンドレはよく放屁した。酔うほどに食の細い彼が口にするのは、一〇個のゆで卵であり、二リットルのピーチジュースだった。胃袋のなかで大量のアルコールと醸成された屁は、硫黄の臭さのなかにほのかな甘みを残した。エレベーターで屁をこき、マイクロバスで屁をこいた。リングロープをまたぐときにも屁をこいたために、リングサイドの観客が避難したほどだった。アンドレは小さな観客たちを見下ろして悪びれるでもなく笑い飛ばした。流れては揮発するすっぱい汗と、シトラスやライムが鼻をつくアラミスという名の香水が混ぜ合わさって、そこにアルコールの恒常的な摂取による甘たるい体臭が加わった。ネッグハンギングツリーの餌食になったレスラーは、首に巻きつく太い腕からアンドレの臭いを吸いこみ、コーナーでヒッププッシュを喰らう瞬間、パンツから漏れだす屁の残り香に思わず眼がくらんだ……。
 これらの逸話が本当にアンドレの巨体に見合うものだったのかはわからない。あらゆる伝説が事実を誇張すると考えるのは間違っている。アンドレの場合、逸話のほうが大きすぎるというよりは、むしろ小さすぎるのではないか。つまり、誇張し足りていないのではないかという疑念が常につきまとうことになるのは、酒にかんするかぎり、彼が伴走者を持ちえなかったことによる。この問題は、アンドレレスリング訓練についてもあてはまる。証言によれば、アンドレはベンチプレスで一八〇キロあげたというが、これはごく少数の例にすぎず、ほとんどの日本人のレスラーは、そもそも彼が練習している姿を見たことすらなかった。リングコスチュームは事務所に置きっぱなしで、試合会場には着の身着のままで現れた(一八文のリングシューズは坂口征二が用意していた。アンドレの踵は異常に角張っていたため、靴下のかかとを切らなければならなかった)。アンドレの酒量が無尽蔵で底なしだったように、意外に多彩なレスリング技術がどのように維持されているのかを知る者はいなかった。彼のうまさが受け手にまわったときに発揮されたことは、「俺は気心の知れた奴にしかボディスラムを許さなかった」というスタン・ハンセンに語ったひと言に表れている。繊細なセールの心得がなかったならば、彼と戦いたいと思う選手はずっと少なかったことだろう。ボディスラムでリングに相手を叩きつけるときは、自分の膝から先にマットに落としたし(それでも相手は背骨が内蔵にめりこむ気がした)、得意技のツームストン型パイルドライバーを封印したのは、相手の首の骨をへし折ってしまったからだった。アンドレの規格外の強さは――逆説的だが――その手加減の具合によってかろうじて推し量られることになった。責めあぐねているレスラーたちの狼狽が、アンドレの強さの保証となった。ラリアットを喰らっても大木のように立ち尽くし、延髄切りやトランスキックはアンドレの顔まで届かなかった。彼がロープワークするたびに、小柄な日本人のレフェリーが宙に浮くのを見て、観客の興奮はいやましに上がった(国際プロレスのリングのキャンバスの下には、新日のようにスプリングではなく角材が敷かれていたが、アンドレが出場するときはいつも四本ほど角材が折れていた)。カーリーヘアは巨体によく映えた。消化不良のまま勝ち星を挙げることは、観客の期待の増幅につながった。一九九五年の北朝鮮での桁外れの興行を除くと、あとにもさきにも越える記録はもう出ないと思われるプロレス史上最高の観客動員数は、一九八七年三月二九日のアメリカ・シルバードームでのWWF(現WWE)の興行での公式記録である。九三一七三人を動員した「レッスルマニア」第三節のメインイベントは、ハルク・ホーガンアンドレ・ザ・ジャイアントだった。滅多に自慢を口にしないアンドレはのちに、ローリング・ストーンズのコンサートを越えたと言った。あいかわらず大いに笑い、ワインの瓶を傾けながら。
 彼の酒量の増加は体重の増加につながり、体重の増加は端的に膝への過剰な負担に表れた。「年齢以上に肉体が老化していたと思う。あの歩き方を見てもわかったからね」とジャイアント馬場が弔辞で語ったように、水が溜まった彼の膝は悲鳴を上げていた。もう増えつづける体重を支えきれなくなっていた。それでも酒を手放すことはなかった。医師の診断書はなんら効力を持ちえず、飲むものをビールからワインに替えただけだった。痛飲のために巨大化したからだは満足にフットワークのできなくなった彼が与えることができる、唯一の脅威となった。体重を減らす努力をいっさいしなかったことは確かである。どこへ行っても指を差される嫌さもあって、外出の機会は極端に減った。ホテルの部屋で酒ばかり飲み、移動中はトランプに精を出した。大きすぎるアンドレは、大きすぎるゆえの苦労を口にすることがなかった。口にしたとしても、そもそも共感されなかっただろうし、共感されない以上、曖昧に聞き流されただろうし、聞き流される以上は熱心にする話題でもなかった。楽しめないなら執着する必要はない。それは肉体のもたらす自然な作用であって、生きている限りつづく。大きなからだは生まれついての運命であり、黙って受け入れるしかない。巨人の最大の敵は、便秘だった。遠征の前にコーラックを一箱丸ごと飲みくだすと、静かにバスタブにまたがった。飛行機のトイレは小さすぎて、プロレスラーたちは事前に下剤を使用せざるを得なかった。生涯独身だったアンドレにも恋人はいたであろうし、遠征の地に抱き上げる子どものひとりもいたかもしれないが、認知はしたかどうか。メインイベンターとして破格の待遇を受けた彼は、一切財産を持たなかった。金は手にした分だけ使った。ハガミ(前借り)はしょっちゅうだった。アンドレを直接知るものは、決まって彼の人柄の良さを口にする。楽天的な豪快さの基盤にある、極めて繊細な気質。「あいつはいい奴だった」。そのことばに偽りはなかったし、言われて本人も悪い気はしなかっただろう。アンドレは全てを飲みこみ、満足だった。「十分にこの人生は楽しんだ。俺はいつ死んでもいい」とアンドレは語った。
 最期のときはあっけなく訪れた。父親の葬儀のためフランスに帰国中の出来事だった。パリのホテルで倒れたアンドレはそのまま息を引き取った。急性心不全。享年は四六歳だった。伝説に生きた男は、伝説のうちに死んだ。