(その九十六) U田ル

 引っ込み思案だがどこかぼんやりしたところのあるU田ル。大学時代、雨に塗りこめられた大教室でのたいくつな講義のあと、入口の傘立てにさした傘があっという間に盗まれてしまうということは、学生ならだれもが知っているはずなのに、授業のあと蒸し暑い廊下で教科書を抱えたまま途方に暮れたU田ルの顔に出会うことがあった。そんなとき、U田ルは、決して悪態をつくことはなかった。私が声をかけると、溜息をひとつもらして事情を説明した。傘をやられちゃったよ。傘立てに放りこむまえに嫌な気がしたんだ。でも、時間もギリギリだったし。まあいいかと思って。やんなっちゃうよ、こんなことがしょっちゅうあるんだ。このまえだって……。U田ルはそこではじめて私の目を見て笑った。自分にとつぜん降りかかった不幸を言葉にできた安堵というよりは、自分は見知らぬ人の持ち物に手をつける人間ではないと決意したことを、だれかに伝えたいーーしかも、はっきりとことばにはせずにだれかに伝えたいーーとそう思っているみたいな笑顔だった。私は生協までついていって、さんざん悩んだあげくに一番安いビニール傘に手を伸ばしたU田ルが、また遠くない先に傘をだれかに取られるだろうと思った。半分は自分の不注意であるということに、なかなか納得できないでいたU田ル。田舎者らしい文化的な飢餓感を抱えている点で、私たちは似たもの同士だったし、いつでも自分が出遅れることに使命感を感じさえしていた私は上映前の名画座の一角で、U田ルがメモ帳を広げた姿を座席越しに見つけてそっと後方の席に移動したこともあった。もちろん、終映後は暗いうちにそっと席を立って、後日なにかの口実にかさねてその映画の感想を聞き出したりした。なぜそんな手間をかけたのかは、いまでも納得できる答えを探せないでいる。おそらくは、競争心からだろうが、それだけではあるまい。きっと、こわかったのだ。同じ映画を観て、彼も自分とまったく同じ感想を持ったかもしれないことが。とにかく、U田ルは私に似ていたのだから。いや、そうではないのかもしれない。友人に自分にはない美徳を見つける喜びが、ただだれよりも抜きん出たいという身勝手な欲望に汚されるのを避けたかったのかもしれない。私は狭小な性格を恥じながらも、自分の感情の起伏をなかなか修正できないでいた。私はだれにも似たくなかったが、自分にはどこか人とは違ったところがあるという自負は、たやすく劣等感やたんなる欠点にすり変わってしまう。画面を走るさまざまな刺激に興奮しながら、そのじつ私ひとりのなかで、思いつきの泡を浮かべていただけかもしれないのだ。だが、そんなちんけなことで、人は最良のライバルから目を背けてしまえるものなのだろうか。私はその思いつきをU田ルの耳に吹き込みたい誘惑に駆られながら、同時にとっておきの思いつきを自分ひとりの胸にしまっておきたかった。その思いつきが新鮮なうちに感動を呼び起こし、そのまま忘れさられてしまうのを。なぜ、同じ意見の持ち主、もっというと、文学や芸術作品を同じように記憶している人間と出会えた衝撃は、それほど長くはつづかないのだろうか。私はさいしょ満足し、相手を信頼し、根掘り葉掘り聞きたくなり、そしてすぐにでも離れたくなる。ただ似通っているというだけで、喜びは消えてしまう。他人を知りたいといつでも願っているのに、自分の飽きっぽさがつながりを閉じてしまう。私が固執できるのは自分しかいないのかもしれない。そんな若く愚かしい考えをなかなかふり払うことができなかった。それとも、劣等感というものは、やはり根の深い、どこまでいってもふり払いがたい感情なのだろうか。少なくとも、U田ルは私を悩ませる感情からは超然としているように見えた。そのことが、とてもうらやましかった。
 私は毎年梅雨の時期になると、あのときの、傘を失ったU田ルの途方に暮れた笑顔を思い出す。決して抜けているわけではないが底抜けに人のよいU田ルにとって、利便性にもとづいた片手間の悪意は、存在しないも同然だった。他人の悪意は自分の身に降りかかるかぎりは偶然の不幸にほかならず、したがって検討する必要もなければ、ふせぐ手だてもない。それは他人の善意と同じで、自分では選べないものだった。そうしたものの見方がいかにめずらしいものかを知ったのはもう少しあとのことだが——というのも都会においてはだれもが失敗から学び、ときにはあまりにはやく学びすぎるために、過去の自分をふり返ることなくまったく新しい人間に変わっていく例をたびたび目にしたからだ——U田ルにかんするかぎり、彼は昔の、つまり私の知っている学生時代の彼のままだと思い、本当にそうかともう何年も連絡も交わさなければ会ってもいない不在の時間のあまりの大きさに愕然とした。
 今日も雨が降っている。いつ止むともしれず、いつ降りはじめるとも知れない梅雨どきの空。U田ルは、受験勉強で目を悪くすることがなかったかわりに、ひどい猫背でうつむいたまま黙々と歩をすすめる姿をキャンパスで見かけることがあったが、どこか思案を邪魔したくない気が先立ってなかなか声をかけることができず、仲間内で遠巻きにあいつは変わり者だとうわさしあったこともあった。後ろ向きで歩くのがちょうどいいやつだよ。そんなことばが私の口をついて、その口調の冷たさにはっとしたこともあった。私にも彼に似た部分があったせいかもしれない。U田ルは、そんな私の気も知らずにあいかわらずの猫背で人の流れとはまったくかかわりのない道を歩いていた。私はそんな彼の姿を見てつぶやいた。はりきって後悔する人間。それはあいつではなく私かもしれない、と。
 後ろ向きに歩くのがちょうどいいやつ。U田ルは、自分がどこかでなくしてしまったものと、このさきどこかでひょっとしたら出会えるのではないかと地面ばかり見て歩いていたのではないだろうか。そんなU田ルの猫背を思い出しながら、私は彼のことを、貧乏癖だと思うこともなければ、感傷的な態度だなどと思うこともなかったし、せめて彼のような頼りない善意のかたまりが生きやすい世の中になればいいなどというおためごかしの正義を希求することを、固く自分に禁じることで満足したあのころの自分に戻っていた。猫背。後ろ向きに歩くのがちょうどいいやつ。そうなのだ。それは、あまりにも私に似ていた。