(その九十) あるところで思考が停止してしまう人達

 道路公団民主化の推進委員会が、最終答申を出す前に大揉めに揉めて、委員長の今井某が委員長を辞めちゃった。「七人の侍」と言われてたのが、五対二で割れて、「七人の侍の中に野武士が入ってる」とまで言われる。「感情のもつれ」というところまで行っちまったらしいが、そういう騒ぎをボーッと聞いていたりすると、「じゃ、あれか」と、私なんかは勝手に思う。
 あるところで思考が停止してしまう人が、時々いる。しかも、「頭がいい」と思われていて、それ相応か、相応以上の社会的地位を得ている人で。騒ぎを聞いて、「今井って人も、あるところで思考が停止しちゃう人なんだな」と思った。初めは「多数決で決めましょう」と言っていた当人が、どんづまりで自分が不利になると、「多数決は採らない」と、委員長の義務を放棄しちゃう――そんな話を聞くと、私としては、「じゃ、あるところで思考で停止しちゃう人なんだな」と思わざるをえない(今やその顔も思い出せないが)。よくいるんだな、日本社会にそのテの人は。
 「あるところで思考が停止しちゃう人」の存在に気がついたのは、昔、学生運動のことを調べていた時だった。
 私は学生運動の外にいた人間だから、学生時代には直接知らなかったけれども、学生と教授会が対立して、そこから「じゃ、話し合いだ」ということが起こると、必ずと言っていいほど、事態はこじれた。こじれると機動隊がやって来て、学生の排除逮捕ということになる。学生は抵抗するし、そうなる前、学生達は大学を占拠していて、「機動隊に逮捕してもらわなきゃならない」という事態を作っている。だから当然、一般的判断では「学生が悪い」という方向へ傾くことになっている。そこが一九六〇年代の終わりの構図で、私はそもそも「学生」ということがあんまり好きじゃなかったから、そういうところへ入っては行かなかったんだけれども、それでも「学生だけが一方的に悪いというのはなんかへんだ」くらいのことは分かる。でも、なにがどうへんなのかを考えても、その当時としては、「教授が反動だから」くらいの答しかなくて、しかしその答は、私を納得させない。それで、二十代の終わり頃に改めて調べ直して、「そうか、あの頃に“大学当局”というものをやっていた教授達は、あるところで思考が停止しちゃう人達なんだな」と、自分なりの結論を出した。後の言葉で言えば、「だからキレちゃう」というところに続くのだが、私としては、「昔の大学教授達はすぐキレた」とも思わない。それを言うなら、昔の学生の方がずーっとキレやすかった。今の学生の方が、ずーっと大人だ。
 しかし、「あるところで思考が停止しちゃう」というのは、実のところよく分からない。「あ、そういう人達はいるんだ」という実感だけがあって、でも「なぜある種の人達は、あるところで思考が停止してしまうのか?」という理由が分からなかった。それ以上分かろうと気もないので、放ったらかしといたんだが、作家というものになった手前、「あるところで思考が停止しちゃう人達」と会うことが多くなってしまった。そして、「あるところで思考が停止してしまう人達」の恐ろしさを実感することになる。
 「あるところで思考が停止してしまう人達」は、実のところ、キレない。彼等は、「キレて思考が停止する」ではない。その一番の恐ろしさは、「思考が停止して、思考が停止したことを自覚してない」というところにある。だから、その人達は混乱を作り出す。「さっき言ったことと、今言ったこととは違うじゃないか!」という形で、周りを怒らせ、唖然とさせることになる。「自分の思考が停止している」ということを自覚していないから、平気で事態を停滞させてしまう。道路公団民主化推進委員会の今井某という委員長が、紛糾を作り出してしまい、その末に「FAXで委員会の開催を一方的に延期する通知を送って来た」なんて話を聞くと、「やっぱりな」と思う。
 一緒に議論を進めて来た一方が「思考停止」に陥ったら、当然そこで議論は止まる。そこで、「自分は思考停止に陥った」と思う人間が、「私はもうついて行けないので、しばらく休ませて下さい」とでも言えば、周りの人間は、「ああ、疲れて思考停止に陥ったんだな」と理解出来る。でも、思考停止に陥った人間が、「自分は思考停止に陥った」という自覚を持たなかったらどうなるのか? 当然、そこで議論は噛み合なくなる。停滞が混乱へ進んで、紛糾という事態になる。その原因は、そこに思考停止に陥っていることを自覚していない人間がいることで、そうなると、普通は誰かが、「あんたはバカじゃないのか」ということを、遠回しに、あるいはストレートに言うことになる。
 しかしそうなると、「あるところで思考停止に陥った人」は、その議論に関してだけ思考停止に陥っていて、「自分は思考停止に陥っているわけではないが、なにか不快な状況に追い込まれている」とだけ実感しているので、たちどころにそこに反応して、「バカとはなんだ!」とか「君のような失礼な人間に言うべきことはなにもない!」とか「ルールは守れ!」とか言って、そこで停滞していた議論の筋道を、夏の夜空に打ち上げられた大輪の花火のように、四分五裂の百花斉放へ導くことになっている。そこがつまりは、紛糾。
 この「あるところで思考停止に陥ってしまう人」の議論の相手が、昔のように「純粋であるがゆえにキレやすい学生」だったりすると、紛糾は「機動隊導入」というような極端なところへ行ってしまう。世の中は騒々しくなるが、これはある意味で、まだいい。この議論の一方が「キレやすくない人間」の場合は、この人の周りに深刻なダメージが残る。
 「あるところで思考停止に陥って、それに関する自覚のない人」を相手に、普通の人が議論を続けると、とんでもないことになる。一方は「議論を成り立たせる能力」を失っているにもかかわらず、その自覚が当人にないから、議論は「議論」の形式のまま続いて行く。だから、これに相手をする側も、「議論の形式に沿った形」で発言を続けて行くしかない。しかし、そのような形で発言を続けても、相手の方は思考停止に陥っているから、その議論の形で続けられる言葉が理解出来なくなっている。さっきまで勇猛果敢に反対意見を繰り出していた人が、あるところで突然思考停止に陥っているとは、普通理解されない。だから、議論だけは続いて行って、すべての言葉が、思考停止のブラックホールに吸い込まれるのと同じ状態になってしまう。一切が無効になって、しかし形式としての「議論」は続いていて、しかもと言うか、だからこそと言うか、思考停止に陥った人間は投げかけられた言葉の断片にだけ反応する。たとえば、「私は“カモメは黄緑色だ”なんて言ってませんよ」と言うと、相手は、「いや言った。今確かに君は“カモメは黄緑色だ”と言ったじゃないか」というようなとんでもない続き方までする。そういうところに行ってしまうと、「単なる勘違い」という軌道修正をするだけでも、二、三十分はかかる。そういう意味不明な脱線状態が続けば、普通の人はカッとなる。カッとなってうっかりしたことを言えば、そこが炸裂してまた脱線状態になる――だからこれを抑えると、長い時間を要した議論での発言のすべてが、「ブラックホールに吸い込まれて無効になる」ということを認めることになってしまう。それは、「自分の言うことすべてが意味を持たない」ということを経験させられることで、このダメージは大きい。
 人間不信になる。「物を言う」ということ自体が無意味に思えてしまう。しかも、思考停止に陥った人間相手に一方的に議論を成り立たせて来たそのことから、「自分は議論を成立させることが出来なかった、その責任は自分にあるんだ」という形で自分を責めるようになってしまう。正義感が強くて真っ向から立ち向かった勇敢な人間ほど、このダメージが大きく出る。
 責任は、議論を成り立たせる能力を途中で失ってしまった人間の方にあるのだけれど、この人間は、「自分は思考停止に陥った」ということを簡単に認めない。認めないから、「まさかそんなことはないだろう」と思い、まともな思考能力で議論を成り立たせる努力をし続けて来た人間の方が、「相手のせいではない、自分の責任だ」と解釈してしまい、「自分を責める」という方向へ行ってしまう。思考停止に陥った人間はケロッとしていて、まともな思考能力を持続させ続けた人間ほど、鬱状態に追い込まれる。「あんたの責任じゃない」と言われても納得出来なくなる。これは、「相手が思考停止状態に陥ったんだから、あんたの責任ではない」という風に説明し、理解させない限り救われない。事が表沙汰にならないまんま、まともな方だけがズッタズッタに傷ついてしまうという点で、とても始末が悪い。
 もしかしたら私は、今珍しくも「実用的なこと」を書いているのかもしれないけれど、こういうことは会社でも家庭でも起こりうる。心当たりのある方は、一度「そうかもしれない……」という立場から、「相手の思考停止」をご検討になってみたらいかがだろう。

  159 なぜそれはバレないか

 道路公団民主化推進委員会の騒動を見て、私は簡単に、「ああ、あの委員長が思考停止に陥ったのか」と思ってしまうけれど、普通の人はあんまりそうじゃない。「あいつはバカなんだ」と、その相手を一方的に拒絶して、その相手がどこで思考停止に陥ったかを、あまり冷静に点検しない――その結果、「あの人が思考停止に陥ることなんてあるのかな?」と、肝腎の焦点をぼやかしてしまう。だから、「世の中には、あるところで思考停止に陥ってしまい、そのことを自覚しないでいる人がよくいる」ということが見えなくなってしまう。「あの人は頑固だ」とか「分からず屋だ」で片付く人が思考停止に陥っても、別に不思議ではない。ところが世の中には、「物分かりがいい」と思われていて、思考停止に陥ってしまう人もいる――こういう相手にかかずらわれてしまうと、そのダメージは深い。だから、「どういう人間が突然思考停止に陥って、それを自覚しないままでいるか」を、頭に入れておく必要がある。
 問題は、「あるところで思考停止に陥る」ではない。「それを自覚しないですませている」の方にある。「すいません、私はもうこの議論についていけません。なにが議論されているのか、私の頭では理解出来ません」と、自分の思考停止を認めてしまえば、別に問題はこじれない。誰だって途中で、「もう分かんないよ」状態にはなるから。問題は、「自分には分からなくなっている」ということが認められなくて、それゆえに事態を紛糾させてしまうことにある。
 となると、話はいたって簡単である。そういう困った問題を起こす人は、「事態を紛糾させうる立場にある人」だからである。平の委員が途中で分からなくなって、ぼけたことを言い出したら、みんな寄ってたかってその欠点を指摘される。議論は一時停滞するだろうけれど、別に紛糾はしない。そういうことになるのは、「平の委員じゃない人」が思考停止に陥った場合だ。「私には、他の委員の二人分三人分の力があるから、他の委員は私の言うことに従うべきだ」と思い込んでいるような大物委員や、議論を進行させて行く議長が思考停止に陥ったら――当然そこで停滞は起こって、紛糾へ進む。つまり、「思考停止に陥って、それを自覚することから免れている人」というのは「エライ人」なのだ。実際に社会的地位が高いか、あるいは「自分は大物だ」と思い込んで、それを周りに押しつけている人間。
 そういう人達が思考停止に陥って、それを自覚しなかったら、困ったことになる。自民党の「道路族議員」とかいう人達の顔を見ていると、「死相が出ている」としか言いようのないとんでもない面構えをしている人が大勢いるけれども、あれはつまり、「思考停止を自覚しないで済んでいる人達」だ。だからこそ、「彼等は“大物”なんだろうな」と思うけど。
 社会的に地位の高い人達は、普通、「思考停止に陥らない」と思われている。それは、「思考停止に陥るような人達が、社会的に高い地位に就けるわけないじゃないか」と思われているからである。確かにそうなのだが、しかし、そういう人達が「社会的に高い地位に就いた後で、思考停止に陥ることはないのか?」という点検は、実のところあまりなされてはいない。「えらくなるまでは立派だが、えらくなってからはどうもよくない」という人は、実のところ、いくらでもいる。つまり、うっかり思考停止なんかしていたらエライ人にはなれないが、一度エライ人になってしまったら、少しぐらいの思考停止はバレやしないという現実も、あるのである。だから、こういう人達は、自分の思考停止を認める必要がない――そう思っていられるからこそ、自分の思考停止を認めずに、自分の周りに混乱を惹き起こしてしまうのである。
 その混乱を見て、「ああ、あの混乱は“中心となるべき人物”があるところで思考停止を起こした結果だな」と、私は思うけれども、それはあんまり一般的じゃない。なぜ一般的じゃないのかというと、普通の人は、「エライ人=思考停止を起こさない人」と思い込んでいるから。それはつまり、「人は思考停止を起こしても、“エライ”という地位は、思考停止を回避する力を持っている」と考えることなんだが、こんなことが間違いなのは、言うまでもない。

  160 その事態をどう回避するか

 「突然思考が停止してしまうエライ人」に巻き込まれてしまうと、とんでもないことになる。とんでもないダメージを受けるその災難を回避する方法はないのか? それは、「あるところで思考停止してしまいそうな人」と関わらないことである。一度これに巻き込まれてしまうと、そこから脱出して立ち直るのに、とてつもない時間がかかる。立ち向かって勝てる相手ではなくて、「立ち向かうと、そのことによって必ずダメージを受ける相手」なんだから、立ち向かってはいけない。関わらないことである。そのために重要なのは、「世間には“自分は社会的地位が高いから、思考停止に陥ることはない”と思い込んでいる人や、“自分は社会的地位が高いから、思考停止に陥ってもかまわない”と思い込んでいる人がいる」と、自覚しておくことである。これを叩き込んでおくと、いざという時に「自分のせいではない」と、そのダメージを回避することも出来る。これを知っておかないと、すべてを「自分のせいで……」にして、ダメージを増大してしまうことになる。
 「ああ、そういう人はいたな」と、経験的に知っている人は、「そうだったのか」と思えばいいし、「なんのことだか分からない」と思う人は、そういうダメージを受けた後で「そうだったのか」と思えばいい。馴れると、「あ、この人はどっかで思考停止するな」は、なんとなく分かる――あんまり馴れたくはないが。



 「そういう人は知っている、ウチの部長がそうだ」とか、「ウチの姑がそうだ」と言う人もいるだろう。すぐに思考停止に陥って事態を紛糾させる姑に悩まされている場合は、さっさと離婚するなり別居するなりすればいい。あるいはまた、家の外で彼女のすることを多くさせて、彼女が「姑」として存在する時間を短縮することである。「関わらない」とはそういうことだ。
 「ウチの部長は時々思考停止に陥って、事態を混乱させて、僕を鬱状態にします」という場合は、「さっさと会社を辞めなさい」と言うわけにもいかない。「私の同僚の女性社員は、“私は意識の高い女だから特別で、あなたは意識の低い男だから論外だ”という前提に立っていて、それゆえにか時々思考停止に陥って、どういうわけか僕は、激しいジレンマに苛まれます。どうしたらいいんでしょうか?」というのも同様で、「さっさと会社を辞めなさい」という訳にもいかない。そういう場合は、「関わらない」の別パターンを考える。
 その地位ゆえに思考停止に陥る人には、「ここから先は分からない」という、思考停止の境界がある。


  橋本治「時々思考が停止してしまう人々」(『ああでもなくこうでもなく4 戦争のある世界』所収 初出:「広告批評」二〇〇二年十二月号)マドラ出版株式会社 二〇〇四年五月一六日発行 一四五〜一五四頁