(その百三)ヤニス・クセナキス

 ヤニス・クセナキスは一九二二年にブライラ(ルーマニア)に生まれた。一九三二年に両親の祖国ギリシャにかえり、スペツァイ島のギリシャ・イギリス学園にはいる。十二歳のとき音楽をこころざす。一九四〇年宛ね工科大学にはいり、同時に抵抗運動にくわわる。一九四五年一月、イギリス戦車隊に対する戦闘で重傷をおう。学校とカンゴク、収容所のあいだを往復する。一九四七年に卒業するが、死刑を宣告され、フランスに亡命する。
 ギリシャは戦前から独裁制であった。かれは禁書であったプラトンをひそかに読んでいた。戦争がはじまると、それはマルクスレーニンにかわった。(「マルクスは部分的にはプラトンだが、ずっと現実的だ。しかし、彼も思想家にすぎなかった。レーニンは同時に哲学者・社会学者・宣伝家・美学者・法律家をかね、全体として比類ない政治的人間だった。二人とないモデルだ。」)ギリシャの抵抗運動の対象はまずイタリー、つぎにドイツ、それからイギリス(チャーチルアクロポリスの丘からアテネの町を砲撃するという、ナチ以上に野蛮な行為をあえてした)、最後にアメリカにかわり、一九四九年にチトーがユーゴ国境をこえたパルチザンアメリカ側に売りわたすことで終止符をうつ。
 そして、収容所での拷問、大量処刑、「再教育」の長い夜がはじまった。一九六七年の合唱曲「夜」はヨーロッパの政治囚にささげられる。
「一九四四年十二月、アテネのさむい夜、街路での巨大なデモンストレーション、時々の、えたいのしれない、致命的なノイズ。ここから集団という発想、確率音楽が生まれた。」

 ――精神分析をどうおもいますか?
 「わたしにとって、おもしろいのは自己を語ることではない。創造すること、行動することだ。積極的な治療法、そこで病人がであう障害が創造と克服の手段になるようなものの方がましだろう。」
 ――無意識的記憶も、創造的発展の方法でありうる。
 「と精神分析医はいうね。患者と医者はこの神話を生きる。私には信じられないね。」
 ――ともかく、精神分析理論はまだ合理的な資格をもたない。つきまとっているものを意識すること自体がそこからの解放になるのは、なぜだろう?
 「人生のおしえる戦術は、たたかいと克服だ。勝利や敗北はつきものだ。それはまた生産でもある。だれでも病気はあり、それぞれの抑圧や恐怖をもっている。日々のしごとと思考によって、それに勝つのさ。精神分析のフラスコにとじこもっても何もならない。
 マルクスが世界をかえろ、と言ったのは百年前だ。いまや人間自体をかえなければならない。世界は、われわれが世界についてもつイメージにすぎないことはわかっているんだ。」
 ――唯我論にもどるんだね。
 「いや、わたしが言うのは、世界が実在するとしても――わたしは存在するとおもっている唯我論者ではないからね――われわれはそれをよくしらないでいる、ということだ。そこに到達したと確信することは決してあるまい。世界は極限としてあるが、これはその客観性をすこしもキズつけない。反対に、既知の世界、われわれがしっているとおもう世界は一時的な仮定にすぎず、われわれの精神的戦術にしたがってかわるのだ。これこそ、時間というものが人間のみずからきたえあげたおそるべき力をつかい、宇宙を直接変形するのではなく、人間精神の変化によって変化させることになった、とおもわれる理由なのだ。このやり方で、宇宙の征服はずっと促進されるとおもうよ。もっとも征服が必要だとすれば、ね。」

 かれにとって、しごとは苦行である。たやすくできることは、かれの興味をひかない。困難のないところには、それをわざとつくりだし、苦行のすえに解決に達する。知性をきたえることが問題なのだ。
 しごとは二段階にわかれる。まず、個人的発想のアトを消し、徹底した方法をつくりあげる。つぎに、この方法をつかってえられる結果に介入する。かれは、自分の苦行の余地をのこすのをわすれない。
 こうして、かれの音楽はかれの理論より遠くへいってしまう。
 「どんな運命にみちびかれているのか、わたしにはわからない。わかっているのはただ、もうすこしで生命をうしなうところだったこと、何もなしとげることなしにおわったかもしれなかったこと、これらの試練によってきたえられたこと、すべてはこれでよかったのだ。ギリシャ人はこうなのだ。自分が何者かをしろうとし、あらゆる種類のすばやく、暴力的な、時には致命的で、そのはてに死がまつような行動に身を投ずる用意がいつもできているのだ。」

 一九四七年、政治の殉教者となるかわりに、かれは音楽のために生きのびる決心をした。ルーマニアギリシャ民族音楽、ビサンチン教会音楽にかこまれてすごした少年時代から長い空白のあと、二十五歳をすぎてやりなおすことができようか? 最初にたずねた教師に、すくなくとも五年間は対位法を勉強しなさい、と忠告されるが、それはまったく時間のむだのようにおもわれた。つぎにオネゲルの教授をうける。オネゲルは音楽に絶望していた。どんな生徒にも、音楽などやめろ、と忠告するのだった。
 一九五〇年、メシアンにあう。伝統的技術の勉強が必要だとおもうか、という質問にこたえて、メシアンは言う――あなたの場合に、それが必要だとはおもわない。あなたは数学をしっているではないか。なぜそれを利用しようとかんがえないのか?
 ル・コルビジエのために、かれは建築の構造計算をうけもって、生活していた。気のすすまなかったこのしごとは、おもいがけなく音楽のあたらしい方法の成立をたすけることになる。後には、音楽でこころみた方法は逆に建築につかわれ、また光による作品の基礎ともなるだろう。


高橋悠治「知の戦術――クセナキスの場合」『高橋悠治コレクション1970年代』平凡社 二〇〇四年七月一〇日発行 一四三〜一四八頁
初出:〈ユリイカ〉一九七四年四月