(その八十四)Q

 ビールの宣伝広告のようだ——もっとも慧眼な友人は、彼女のことをそう呼んだ。私は即座に同意した。少なからざる男たちは、すれ違う彼女の後ろ姿を眼で追ったに違いない。彼女は美人だったからだ。シャギーの入った肩までのストレートヘアーに、姿勢のいい反りかえった背中。きびきびとよく動くお尻に、固くも柔らかくもなっていないきれいなかかと。ひかがみには平行する二本の線がくっきりと浮かんでいた。文句なしの美人だと言っていい。街ですれ違ったときには一瞬気を惹かれるような——それでも、あえて正面から彼女を見ようと行き先を変える者はいなかったに違いない。彼女は美人だった。だが、ときおり見かけるビールの宣伝広告のように、ごく当たり障りのない美人だった。
 加えて——まったくもって不幸なことに——彼女は美人なうえに、すこぶる有能な人間だった。目先が利いて、よくできるひとだと評価されることはしょっちゅうだった。褒められれば控えめに眼もとを伏せ、謙遜するように顔を背けた。知り合いは彼女の有能さを知り、関係を深めれば深めるほど、最初に抱いた印象をより確固なものとして、場合によっては満足し、場合によっては嫉妬した。そして、それっきりだった。彼女は、その有能さゆえに、安っぽく見積もられた。あいつならなんとかしてくれるだろう。いつも頼りにしているんだから。それだけ。期待はどこでもされただろうし、求められて応えない彼女ではなかっただろう。彼女は大手の企業に就職し、同年代の男よりもいい収入を手にし、不自由のない実家暮らしだった。ふつうなら、うらやましがられておかしくないご身分だ。だが、見事なまでにそれっきりだった。彼女の努力は有能のひと言で片づけられたし、たまたま手を抜いたときですら、有能さの示す社交性の一端だろうと理解された(気を遣ってくれている!)。彼女のあらゆる行為は特定の目的を持っているものと見なされた。失敗でもしでかそうものなら、それは彼女個人の過失ではなく、周囲のできそこないの人間への悪意とさえ受け取られかねなかった。彼女は美人で、有能だった。そうなのだ。それで充分じゃないかという人はなにもわかっていない。私はくり返そう——彼女は不幸だったのだ。
 彼女は本当の自分が理解されていないと感じたことがあっただろうか。おそらくは、ない。ただ、理解されるのが早すぎると感じたことはあっただろう。そうなのだ。問題は評価と実存の二元論にはなく、単に一度固まってしまったらわれわれの関係がどうにもこうにもう動かしえないものになってしまうこと、ただそれだけにあったのだ。彼女は自分の外見に満足し、有能さに満足することができなかった。なぜなら、それはすでに彼女自身が持っているものだったからだ。それ以上になにができるだろうか? 彼女はいつも自問自答したが、答えが見つかる気配は微塵もなかった。そうなのだ。彼女には自分というものがなかった。見つけたい自分も、探されたい自分も——求められる自分も。考えごとは長くつづかなかった。彼女はどこかで、自分のことばかり考えるのはみっともないと思っていて、だれかもっと魅力的な他人に思いを馳せた。なぜあの人はあんなに自由なのだろう。いつもの繊細で用心深い留保を抜きにして、彼女はそう思った。
 それでも、すくなくとも彼女は美人で、しかも有能だったのだ。たいていの仕事はわけもなくこなせるように、たいていの服は試着せずとも似合うことがわかっていた。だが、あくまでもたいていのことにすぎない。有能といわれる人がおうおうにしてそうであるように、彼女にはどこかしら美的感覚が欠けていた。彼女がいくらか引き締まって見えるのは、高価なフォーマルスーツに身を包むからで、それ以上ではなかった。生来の着こなしに関する無知のために、どことなく着崩れを気にする気配が肘や肩を伸ばす動作に感じられた。服は汚れを寄せつけないが、かえって気が重くなった。まるで、毎朝毛くずをつまんで確かめるスーツや清潔にプレスしたシャツよりも早く、彼女自身の肉体がくたびれて見えるのを恐れているかのようであった。直面する問題には、いつでも取捨選択する手段があって、優先される解決方法があった。だが、彼女自身は? 自分のことをしゃべり出すと、とたんに歯切れが悪くなる。そんなときの彼女の言いよどむ声やふるえる瞳に気づくものはいなかったのだろうか? そうなのだ。おそらくは、いたに違いない。でも、それを指摘したものは? 彼女自身ですら自分にそれをしなかった。彼女の世界観に、有能だといわれる彼女の世界観にそんな発想はなかった。なら、だれがそんなことを気に留めるというのだろうか? 成功だけが動機を正当化する。ただ彼女は惰性でその規律に従い、一度も定まったことのない自分を失っていった。必要と欲求はいつのまにかひとつにくっつき境目を見分けられなくなってしまった。人が自分自身であるためには不器用にならなければならないという、陳腐であるがゆえにまっとうな主張に心惹かれることはあったが、それはあくまでも他人の話として——自分もそのうちのひとりであるかもしれない他人の話として興味をもったにすぎなかった。彼女の態度にどことなく投げやりな姿勢が見え始めたのはこの頃のことだ。耳と口が別々に働き、やるべきことだけを考え、計画を組み、からっぽのままの頭に、迅速な情報整理のリール音だけが音もなくがなりたてる。あのぞっとするような相づちを聞いたら、だれだって責められているような気がしたものだ——彼女は美人で、有能で、しかも自分の人生というものがなにもなかった。正当な報酬をもらっていない。いつまでもそんな不満だけが彼女のなかに残った。