(その八十一) アンリ

 下水道で働いているアンリもいた。背の高い、縮れ毛の陰気な男で、下水工夫用のブーツを履いているとなかなかロマンティックな男前だった。変わっているのは仕事のこと以外口をきかないということで、文字通り幾日でも口をきかなかった。彼はわずか一年前まではお抱え運転手で、高給をもらって金を溜めこんでいたのだが、ある日恋におちた。相手の女に肘鉄をくらった彼は、癇癪をおこして女を蹴とばした。女は蹴とばされるとアンリをはげしく恋するようになって、二人は二週間同棲し、アンリの金を二千フラン使った。ここで、女が裏切った。アンリはナイフで女の二の腕を刺し、半年の刑をうけた。女は刺されたとたんに、それまで以上にアンリを恋するようになり、二人は仲直りをすると、アンリが刑務所から出てきたら彼にタクシーを買い、結婚しておちつこうと約束した。ところが、それから二週間後に女はまたもや裏切って、アンリが出てきたときには妊娠していた。こんどのアンリは刺さなかった。そのかわり貯金を全部おろして大酒を飲みつづけ、また一ヶ月の刑務所暮らしをした。それきり、彼は下水で働くようになったのである。アンリに口をきかせることは、どうしてもできなかった。なぜん下水で働いているのだと聞くと、ただ手首を交差させて手錠の格好をしてみせ、南の方に顎をしゃくってみせる。南には刑務所があるのだった。運が悪かったばかりに、たった一日でバカになってしまったように見えた。
     ジョージ・オーウェル『パリ・ロンドン放浪記』小野寺健訳 岩波書店(文庫版) 一九八九年四月一七日発行 一〇〜一一頁
George Orwell, Down and Out in Paris and London (1933)
Secker & Warburg (1954)