人類性格図鑑

(その七十六) 嘉男

ともかく嘉男は、なんにも知らなかった。それだけだった。 体重計に乗れば、いつもメーターの針は「57」のところで止まってしまう。別に何をどうしているわけでもなくて、それでも体重はずーっと一定だった。「ちょっと痩せてるかもしれないが、ともかく平…

(その七十五) ウィドリントン夫人

……彼女は彼に愛の技術を教えた。「地獄に悪魔を全部蓄えておく炎のような情熱」を持つ彼女は、彼の愚鈍さを罵り、臆病さを笑い、最後には自分が彼に恋をした。 ヴァージニア・ウルフ『ロジャー・フライ伝』宮田恭子訳 みすず書房 一九九七年九月一二日発行 1…

(その七十四) サルバドール・ダリ

過去にさかのぼってまで「野生の状態に」ある美を識別し、同時にまたそれを本来のなかに投影してきたということが、シュルレアリスムに対して、この〈美〉の、くりかえし可能な若さの独り占めを保証するはずである。その点からして、シュルレアリスムの表現…

(その七十三) 日本の政治家

「悪いことをしても決して逮捕されないほどに悪い」――それが日本国民の思う政治家なのである。 橋本治『二十世紀』(一九七四年の項)毎日新聞社 二〇〇一年一月三〇日発行 345頁 一九七四年は、リチャード・ニクソンと田中角栄というふたりの大物が辞任した…

(その七十二) アメデオ・モディリアーニ

モディリアーニの肖像画では、モデルの個性を表すのにふさわしい手法によって、その身体の一部分が示される。顔や眼、あるいは両手など身体の一部が慎重に選択され、強調されることで、モデルの人間性が象徴的に画面に示される。モデルたちは、頭を支えてい…

(その七十一) ブラッサイ(ジュラ・ハラース)

ブラッサイの「落書き」に関する仕事で何よりも特徴的なのは、それが一挙にまとめられたわけではなく、展覧会、雑誌などで、長期にわたり断片的に発表されていったということと、その都度彼が異なるスタイルの文章を試みているということである。一九五六年…

(その七十) 藤田嗣治

「ただ殴らないということだけが、優しい夫ではないのよ。あなたの小父さんは、一度だって手荒なことをしたことがなかったわ。何時も何時も優しかったわ。でもね、本当には優しくなかったのよ。それが分ったのは、ずっとずっと後のことだったわ」 ユキ・デス…

(その六十九) 佐伯米子

一九二三年の秋、渡航のために新橋にある米子の実家に預けていた荷物が震災で焼けだされた直後は、とうぶんのあいだは東京で不便をしのんでいるしかないと相談しあったものだった。多くの知人を亡くした。運よく住まいを失わなかったものもいたが、友人の何…

(その六十八) ベイヤード・サートリス

それからまた、そうした戦争帰還者の中に、ベイヤード・サートリスがいた。彼は一九一九年の春帰ってきて、見つけることのできる一番速い自動車を買い入れ、郡じゅうを乗り廻したり、メンフィスへいったりきたりして暮らしていたが、(われわれはだれもそう…

(その五十七) 安藤

明治のはじまりは、まだ、余勢があって、すもうの柏戸や、相模政五郎や、一中ぶしの家元の菅野序遊だとか、吉原の幇間の桜川なにがしだとかが、昔日通りに出入りし、もの日祝い日の催しには、はなをまきちらして、それを家の格式、繁栄のしるしとおもいこん…

(その五十六) ハイム・ナーゲル

ハイム・ナーゲル氏。ナーゲル氏の分別、忍耐、親切、勤勉、機知、頼りになる感じ。自分の領域であまりにも完璧に行動するので、他人からあの人たちは地上のあらゆる領域ですべてに成功するに違いないと思われる人びと。しかし彼らが自分の領域を越えないと…

(その五十五) P

Pは、ある死体から銀の貞操帯を鋸で切って外した。彼はルーマニアのどこかで、その死体を掘り出した人夫たちを押しのけ、自分が記念に欲しいと思うある貴重な小さなものがそこに見えると言って人夫たちをなだめ、帯を鋸で切ってあけ、骸骨から取り外したの…

(その五十四) ドリーナ

「あたしにはもう、若い男に目くばせをする娘までいるのですもの、そうじゃない?」 チェーザレ・パヴェーゼ『青春の絆――パヴェーゼ全集5』河島英昭訳 晶文社 一九七五年四月三〇日発行 158頁

(その六十七) ギャヴィン・スティーヴンズ

「はい」と彼女がいう。それは金のライターだったのさ。「あなたがこれを使いたがらないのは、知っているわ。だって、ライターでパイプに火をつけると、油のにおいがするって、いってたから」 「いや」と検事がいう。「わたしがいったのは、わたしにはそれが…

(その六十六) 野間三径

中学生は仇名をつけることの天才だ。うす菊面のある国語の教師には「かたぱん」、同級の月足らずのような少年には「血塊」、顔色の悪い黄ばんだ少年には「うんこ」、僕には、「こんにゃく」という仇名がつけられた。漢文の先生の野間三径には、「にせ聖人」…

(その六十五) 百田宗治

百田のことは、それまでにも富田の口からいつもきかされつづけていた。彼はまだ、故郷の大阪にいて、大鐙閣という本屋につとめながら、詩を書いていた。ストリンドベリーの研究をしていた藤森という男と二人で、雑誌を出していた。藤森が死んで、百田がいよ…

(その六十四) 鼻のぽん助

虹口辺で、中国人と合弁でハイヤー会社をやっている中尾という人物――この人物は、京都等持院の撮影所にいた頃の岡本潤の友人で、自称アナルシストの、地方の小ばくち打ちのあんちゃんのような人物であったが――から、謄写版の機械を借りてきて、一昼夜で書き…

(その六十三) 石丸婆さん

石丸婆さんは、鉄扉の内からの錠を外して、眼の前に立っている私たちをみると、しばらくは物を言えず、顔をながめていたあとで、 「あなたがた、どっから降って来よりましたか。この天気に」 と、雲のなかを雲が岐れてゆくうすぐもりの空を見あげた。婆さん…

(その六十二) 秋田義一

とやかく評判するものもあるが秋田義一は一風変った人物だった。 いやなことは聞かないふりをするというので、勝手つんぼという綽名もあり、また、耳シェンコとも言った。盲目のエロシェンコをもじったのだが、確かそれはサトウ・ハチローの命名だったようだ…

(その六十一) 佐藤惣之助

詩をつくりたがるようなこころのもろさが、詩をつくるよりしかたがないという、意のはげしさに居直るまでの長い時間に、手持ちの品は、おおかた手ばたかなければならなかった。それは、ただ動産、不動産の物件だけではない。僕のそばをすりぬけて、目の前で…

(その六十) 金子荘太郎(2)

僕じしんは、意味もなく放埓なくらしをつづけていた。街を歩いていても、ふと旅がしたくなればそのまま、当時まで女中一人を使って一つ家にいた養母などには知らせもせず、汽車に乗って、二晩でも三晩でも、時には一週間でも留守にした。岐阜大垣辺から、関…

(その六十) 金子荘太郎(1)

義父の家は、先祖代々江戸馬喰町で、庄内屋という旅館をやっていた。一町四方もある大きな旅館で、牢内から出たものの手当を命じられて、当主の半兵衛は、姓字帯刀をゆるされていた。徳川とおなじく十五代つづいて、義父の荘太郎が十六代目、僕がつげば十七…

(その五十九) 金子須美

親戚の女髪結いのもとにあずけられて、無心であそんでいた二歳の僕を、髪結いにきた女たちが、かわるがわる抱きあげてあやした。色が白く、骨なしのようにやわらかいそのあかん坊は、すでにバガボンドの素質をもっていたものか、抱くあいてが誰であっても気…

(その五十八) 加藤純之輔

差木地村には、加藤純之輔と、小山敬三がいた。春陽会の画家たちだった。加藤は詩も書いた。東京へかえってからも、加藤との交際がつづいた。芸術家気質で、自我の強い彼は、内という字のなかの字が人か入かということで、朝の十時から、夕方まで僕と議論し…

(その五十三) ユーラ・ヴァーナー

彼は忙しくても平気だったんだ。だって、満足し、幸福だったからな。彼にはもうなに一つ心配ごとはなかったから。ユーラはもうだれの手にも届かないところへいってしまったんで、マッキャロンとかド・スペインとかいう名前の別の男がまた現われるかも知れな…

(その五十二) 宮沢喜一

ウチの総理大臣もすごいやね。 「アレでしょ、ニューハンプシャーってとこは景気の落ち込みがひどいわけだし、ブキャナンて人だってムニャムニャムニャ」って、アメリカの大統領の予備選挙の正確な論評しちゃうんだから。日本の総理大臣てーのは、伝統的に「…

(その五十一) クルーク夫人

クルーク夫人は、義捐興行のためにいくつかの新しい歌を披露し、また、ニ、三の耳新しい洒落を飛ばした。しかしぼくが完全に彼女への魅力に捉えられていたのは、幕あきの彼女の歌のときだけだった。それからあとぼくが最も強力な関係をもったのは、彼女の姿…

(その五十) 娘たち

娘たちの教育、すなわちその成長や、世間の決まりに慣らしたりすることに、ぼくはつねに特別の価値を置いてきた。そういうときは彼女たちは、自分たちをほんのちょっとだけ知っていて、自分たちとちょっと話をしたいと思っている人間を、もはやそんなににべ…

(その四十九) 独身者

独身者の不幸は、それが見せかけのものであれ現実のものであれ、周りの者からいともたやすく察知されるので、彼が秘密を楽しむために独身者になったのだったら、きっと自分の決心を呪うだろう。なるほど彼はぶらつくとき、きちんとボタンをはめた上着をきて…

(その四十八) 工場の娘たち

きのう工場で。この娘たち――だれの目にも耐えがたいほど汚れただらしのない服装で、髪は目を覚ましたときのように乱れ、そしてその顔の表情を、伝導装置のたえまない騒音や、自動式だが数え切れないぐらいよく止まる個々の機械にしっかり摑まえられている――…