(その七十) 藤田嗣治(2)

 学校で絵を描いていたら誰かが、面白いぞ、と大声をあげながら教室へ入ってきた。今なア、美術館に行って、お賽銭箱に十銭投げるとフジタツグジがお辞儀するぞ。本当だった。隣の美術館でやっている戦争美術展にさっそく行ってみたら、アッツ島玉砕の大画面のわきに筆者の藤田嗣治が直立不動の姿勢でかしこまっていた。当世規定の国民服で、水筒と防毒マスクを左右の肩から交互させて背負っている。脚には革の長靴をはいて、ともかくも見事ないでたちだ。もちろん頭は五分刈りだったが、これもまた似合っている。
 この大きな絵が出来あがった日のことは、藤田邸に住みこんでいる私の女友だちから詳しく聞いていた。山崎部隊長を先頭に全員玉砕の姿を写したその画面のまえに家の者は集ってローソクをともし線香をあげて冥福を祈った。夜も更けたと思われるころ、画面の中央に描かれている山崎部隊長、それから画面に散在している兵隊のそれぞれの顔がふっと笑いかけて元どおりの絵の顔にもどったという。「御霊還る」。この不思議な出来事は翌日の新聞に写真入りで報じられていた。そのときローソクがゆらゆらと揺れて少し明るくなりました、と女友だちは以上な感激をこめて語ってくれたものだ。それにしても新聞記者まで呼んで弔いの儀式をしたとは行き届いている。
 それから間もなく、私は学校を半年はやく卒業させられて兵隊に征くことになり、一夜、麹町の藤田邸でお別れのもてなしをうけた。私の女友だちが主の許可をうけて御馳走をつくってくれたのだ。物の不足した時代だったが、藤田家は南方から還ってくる従軍画家たちの土産で、バターやチーズなんかもあったのだろう。今から戦争に征く人に逢いたいというこの家の主の言葉で、私はアトリエへ通された。藤田夫妻はドアをあけたすぐのテーブルに並んで坐っていて、私はその前に腰をおろし、主がむいてくれる林檎を緊張して食べた。果物が食べられるだけでも感激だった。オ国ノタメニ、小さい声だ。タタカッテ下サイネ。画伯はチンピラの私に深々と頭をさげた。
 藤田嗣治アッツ島玉砕の話は本当かも知れない。心底この画家は日本の戦いを、祈りとしている。画家の背後にアトリエの空間が拡がり、向うの壁にぎっしりと衣裳が並べられていた。空襲のときに、それから外出のときに着なければならない服や必要品が用意されているのだ。しかし私たちの防空頭巾や服やゲートルとはいささか趣がちがう。め組と白く染めぬいた江戸の火消しの頭巾と衣、コザック隊の制服みたいな、縁を色どったダブルの上衣に赤い長靴、その他まあよくもと思われるくらい色とりどりなのだ。この人は戦争ゴッコに夢中になり、画面の横につっ立って大真面目の芝居を娯しんでいるのではないか。
 戦争がみじめな敗け方で終った日、フジタは邸内の防空壕に入れてあった、軍部から依頼されて描いた戦争画を全部アトリエに運び出させた。そうして画面に書きいれてあった日本紀元号、題名、本人の署名を絵具で丹念に塗りつぶし、新たに横文字でFOUJITAと書きいれた。先生、どうして、と私の女友だちは訝しがった。なにしろ戦争画を描いた絵かき達は、どうなることかと生きた心地もない折だ。なに今までは日本人にだけしか見せられなかったが、これからは世界の人に見せなきゃならんからね、と画家は臆面もなく答えたという。つまりフジタにとって戦争は、たんにその時代の風俗でしかなかったのかも知れない。
 私がパリで逢ったときは、藤田さんはもう白髪になっていた。私の親しい友人の金山康喜が突然亡くなって、パリに残されている金山の絵の後始末で藤田さんをわずらわすことになり、私はモンパルナスのアトリエを訪ねた。なんどかは街で見かけてはいたが、こうして訪ねるのは始めてだった。昔たずねた麹町のアトリエには、モジリアニが描いたフジタの顔が飾ってあったが、このアトリエには小さく仕切った壁一面のタイル貼りに、子供のさまざまの姿態が描かれていた。私は以前に訪ねたことなどはおくびにも出さなかったが、正直いって藤田夫人は最初逢った時から怖かった。主も家のなかでは訪問者にたいして気をつかうようで、外に出ると、キミ、スマナイネ、と小さく謝ったりした。藤田さんは真黒の大きな車に私を乗せると、すぐさまポケットからシガレット・ケースを取り出して、しきりにたばこをすすめた。たった今すったばかりなので私は遠慮したのだが、すすめ方が妙にしつこい。ケースは、薬のあき箱だろう、摩り切れて模様も何もなくなっている。車は贅沢だが小道具はやけにケチだなと思いながら、折角だから一本いただきますと手を出したら、カチャリと蓋があいてその裏っかわ一面に細密な猥画があらわれた。煙草の一本を手にとりながらハッとすると蓋が閉まってもうおしまいだ。画伯はさっさとポケットにしまいこんでしまった。
 この車に乗せられて、ことのついでに日本大使館にも行った。運転手が通りで待っていますというのを、藤田さんはむりやりにバックして車を大使館の中庭までつっこませたりした。大使館の若い人が出てきて、先生、大きな車ですね、と挨拶すると、うん、これはパリ用だと藤田さんは言った。郊外用のやつは長すぎてパリの街なかでは使えないんだ。
 戦争画のサインを書きなおして平気だったフジタは変ったのだ。なんで日本大使館に寄ったりして子供じみたデモンストレイションをするのだろう。フジタは、もう日本には帰れないと思いこんでしまっていた。昔のままのつもりで戦後もどってきたフランスでフジタはこっぴどくたたかれたのだ。この楽天家は、はじめて自分は戦争加担者だという負い目を感じた。ドランはナチ占領下で、命令のままにナチ司令部のサロンに作品を展観し、ボナールの細君もまた亭主の命が危ないのではないかと本人に知らさず作品を展観して、フランス人民から戦後ひどく批判された。当然、自分の過去の罪状は故国できびしく問われていることだろう、夢中になって戦争画を描いたことで、日本人は自分を戦犯者だときめつけているに違いない。ーー日本は藤田さんにとって遠くなっていた。それだけに日本の土への思慕はつのっていたようだ。藤田さんは、息子のように愛していた金山康喜に、自分の女房を東京へ連れていってくれと頼んだ。夫婦よりそって遠い故国の想い出にふけることに耐えられなくなったのだろう。金山は他の用事もあってフジタ夫人と共に日本へ一時帰国し、再びパリに戻ることなく死んだ。
 フジタはフランスに帰化した。そうするより気持の拠りどころがなくなったのだろう。どんな小さな隙間も埋めるようにこの画家は、精密な絵を描き散らしていた。
 秋もかなり深まった頃、モンパルナスの小さいミュージック・ホールに私は友人とロシア民族舞踏を見にいった。二階の一番前から下を覗くと、観客のなかに藤田さんの姿が見えた。たしかその夜はジルベル・ベコーだかも来ていて、舞台がはじまる前、スポット・ライトがそれぞれ二人を照らしだし、名前をアナウンスした。藤田さんは光りの中に立ちあがり観衆に手をふって応えた。立見ならいざ知らず、いい座席のほとんどの人が同伴者なのに、藤田さんは独りだった。その夜の歌と踊りは面白かった。終って私たちはきらびやかな興奮をいだいたままホールの外へあふれていった。メトロの入口の方へ廻ろうとして私は、洋服屋の陳列の消し忘れた光りの前に佇んでいる藤田さんを見つけた。なんだ、キミも来てたの。藤田さんは嬉しそうに言った。面白かったね、本当に面白かったねエ。藤田さんは何度も同じ言葉をくりかえした。何を言い出すでもない、ただそうやって言葉をつないでいるだけだった。ホールから出て来た人たちもあらかた行ってしまった。別に陳列のなかの洋服を見ているわけでもないだろうに、藤田さんは帰ろうとしなかった。私はメトロの最終がなくなるのではないかと気が気ではなかった。それに夜は冷える。そうかいキミも見ていたのか。藤田さんは陳列の光りのなかを覗きながら繰り返した。この老人は家に帰りたくないのだろう。今となっては日本にも帰りたくないが、フランスのベッドで眠ることも出来ないのかも知れない。私たちにとってフジタの帰化は、一種コスモポリタンとしての見事な資格を、人格的に掴みとったように思っていたが、どこの土地の人間でもないただの旅人ではなかったのか。つねにライトに当っていなければ生きてゆけない人生がそこに在るようだ。アッツ島もパリも光りだった。帰化さえ光りにしたがっている。


 野見山暁治戦争画とその後ーー藤田嗣治」『四百字のデッサン』所収 河出書房新社 一九七八年一月三〇日発行 九〜一五頁