(その百二)ニコラス・テメルコフ

 彼は列車でトロントに向かった。彼の村の人間が大勢いて、見知らぬ者の中に入らずにすんだ。でも、仕事がなかった。それで北へ向かう列車でサドベリーの近くのカパークリフに行き、そこのマケドニア・パン屋で働いた。食事と宿付きで月に七ドルもらった。六ヶ月後にスー・セント・マリーに行った。まだほとんど英語を話せなかったので学校に行くことに決め、夜はやはりマケドニア・パン屋で働いた。言語を習わなければ迷い込んでしまうと思った。
 学校は無料だった。同じクラスの子供たちは十歳で、彼は二十六歳だった。朝の二時に起きてパン生地をつくり、八時半までパンを焼いた。九時には学校に行く。先生たちはみんな若い女性で、とても親切な人たちだった。スーでのこの期間に、彼は翻訳の夢を見た――とりつかれたように急いでやった異常な英語教育のせいだ。その夢の中で、木々は名前だけでなく姿と性格も変えた。男たちは裏声で答えはじめた。犬は、通りで彼と行きあうたびに大声の早口で話しかけてきた。
 トロントに戻ったとき、彼が必要としたのはこの言語のための声だけだった。移民たちのほとんどは、自分たちの英語を、レコードの歌か、トーキー映画が登場するまでは舞台の役者の真似をすることでおぼえた。ひとりの役者を選んで、その出演作をひとつも逃さずに追うのが一般的な習慣で、その役者が小さな役をふられたときは腹を立て、どの芝居もできるだけ多く見た――ときにはひとつの興行で十回も。たいてい、東部地区のフォックス劇場やパロット劇場での興行が終わるころ、役者たちの台詞には、だんだん大きくなってくる谺がついた。マケドニア人やフィンランド人やギリシャ人が、発音を正しくしようと半秒の間のあとに台詞を復唱したのだ。
 これは役者たちを激怒させた。とりわけ、「クリスティン、誰が居間にストーブを入れたの?」のような――もともとは大喝采を博していた――台詞が、少なくとも七十人の人間に同時に言われ、その自然さを失いがちになるといったときに。二枚目役者のウェイン・バーネットが上演中に倒れたときは、シチリア人の肉屋が役をひきついだ。その台詞と振付けをきわめて正確に知っていて、お金の払い戻しをしなくてもすんだ。
 何人かの役者は、ゆっくりと話すので人気があった。眠気を誘うようなバラードや、歌詞の一行目が三度くりかえされるタイプのブルースは、需要が非常に多かった。一時滞在者は自分たちの訛りからアメリカの一地域の声へと歩みでた。ニコラスは、不運なことに、のちに手本としてファッツ・ウォラーを選ぶことになる。普通なら気づかれない音節や捨て台詞を強調するようになり、そのために、ひどく神経質か、危険なほど反社会的か、あるいは愛情過多の人間に見えた。
 しかし橋で働いていた時期は、世捨て人のように見られた。新しい言語で文章をはじめるが、ぶつぶつ言うだけで、突然歩き去った。彼は、秘密と記憶の貯蔵庫になってしまった。私生活の秘密が彼のかかえる唯一の重みだった。仲間は誰も、ほんとうは彼を知らなかった。集団でいるのが苦手なこの男は、いきなり立ち去って、ガレージの屋根の雪に残る犬の足跡みたいな、自分についての奇妙な手がかりを残すのだった。


マイケル・オンダーチェ「ライオンの皮をまとって」福間健二訳 水声社 二〇〇六年一二月一〇日発行 六三〜六五頁
Michael Ondaatje, In the Skin of a Lion, 1987