(その七十七) モーリス・ユトリロ

彼の生活は悲惨だった。学校では殴られ、母親には見捨てられ、夜家へ戻っても慰めたり、力づけてくれる人もいなかった。そこで、彼は宿題をいい加減に片付けて、台所にブドウ酒のビンを捜しに行くのだった。
 恐るべき事実、それはモーリス・ユトリロが八歳のときから酒を飲んでいたということである。彼がブドウ酒を好むようになったのは、ボワシ―の遺伝を強く受けたためである、と長い間言われてきた。しかし、彼の飲酒癖は〈モンマルトルの風車の吟遊詩人〉――証拠はないが、彼がモーリスの父だと仮定して――のせいではなく、彼の祖母の粗野で愚かな行為のためであると断言できる。正直いうと、ほとんどの農民同様一杯やるのが嫌いでなかったマドレーヌばあさんは、力づけてくれるブドウ酒をちょっと一杯やったからといって、誰にも迷惑をかけるわけではなく、長生きできるとさえ考えていた。ごく自然に彼女は、小さいころからモーリスにブドウ酒を飲ませた。今日でもまだブルターニュ地方の農民は、学校へ行く自分たちの子供に安ブランデーの小ビンを持たせており、溝の中でぐでんぐでんに酔っ払っている十歳の子供が病院に収容されることがある。こんなことはほとんど新聞種にもならないが、あらゆる新聞社の編集局が毎年、似たような話に出くわしているはずである。
 孫が神経質なのを心配したマドレーヌばあさんは、彼のスープの残りにブドウ酒をちょっぴり入れてやって、彼に中部地方の農民がよくやるように、〈ブドウ酒入りスープ〉を作らせ気分を落ち着かせ、たやすく就寝させる以外何ら巧い手を見い出せなかった。彼は満腹したツグミのようにたわいなく寝てしまうのであった。酒に強くなって効かなくなると、彼女はその量をふやし、徐々にモーリスは飲酒癖を持つようになってしまったのだ。ピエルフィット時代、彼は学校から戻るとしばしば宿題を始める前に台所へ行って、赤ブドウ酒をなみなみと注いで何杯か飲み干すのであった。彼が悲劇的状況にあることにやっと気付いたマドレーヌばあさんは、ブドウ酒を隠したり、家にもうないかのように装ったりしてみた。が、何の役にも立たなかった! 怒り狂った彼は「ボクにブドウ酒のビンを寄越せ! さもないと何もかも壊しちゃうぞ!」と言って彼女を脅かした。彼女はたった一人で彼に立ち向かわねばならず、自分の娘やムージスには何も言いたくなかったので、いつも彼に譲歩してしまうのであった。モーリスに飲酒癖があることを知ってヴァラドンとムージスがびっくりしたのはまだ五、六年しか経っていないときのことであったが、すでに手のつけられない状態になっていた。何とか歯止めをかけようとしたら、こんどは彼らが大声と脅しの言葉を浴びせられ、喧騒騒ぎに巻き込まれる羽目になり、以後、彼らはアル中患者を抱え込むことになる。
 結果として、ユトリロは飲んで不機嫌になることが滅多になかった。彼は、一九〇六年ごろ飲み友だちになったモディリアニのように、ブドウ酒を飲むと気むずかしくなる喧嘩好きな酔っぱらいではなかった。彼は気が弱かったので、反抗するときには精一杯我慢し、それから堪忍袋の緒を切って荒れ狂うのであった。普通に酔っているときは、ただ騒々しく、神経をいらいらさせ、くだらない冗談を言っては尻を蹴飛ばされる酔っ払いに過ぎなかった。
 思い出話がいつも正確ではないエドモンド・ユゼ――勝手に想像しているうちに、すべて記憶の中に刻み込まれてしまったというのが正直なところであろうが――は、自分と仲の良かったユトリロの飲酒癖を説明するため、一つの作り話を世間に広めている。彼によると、ユトリロの悲劇の根源は母親とアンドレ・ユッテルとの異常な恋愛にあったというのだ。彼は述べている。
「ユッテルが自分の母親の腕に抱かれているのを見つかって驚いた様子をしているのを目撃した――どうこう言うほどの行為ではない――ことが、彼が酒を飲み始めるきっかけになった。たった今眼にしたばかりの光景に狼狽して、気も狂わんばかりになった彼は、モン=スニ街のブドウ酒店「ゲランばあさん」の酒場に飛び込んだ。青白い顔をして困惑した態度の彼を見て、彼女は聞いた。『モーリスや、どうしたの? ブドウ酒を一口おやり。落ち着くよ』それは彼に好結果をもたらし、気分が落ち着いた。こうして彼は酒の味を覚えたのである」と。
 見事な作り話だ! シュザンヌ・ヴァラドンがユッテルの愛人となったのは一九〇九年だが、ユトリロはそのときにはすでにサン=タンヌ精神病院でアル中の治療を受けていたのである。とはいえ、ユゼの話にも幾分かは真実の要素がある。ユッテルと事に及んでいる自分の母を驚かせた後、ユトリロ自身もそのことですっかり気が動転してしまい、その日普段よりいささか余計に酔っ払ったということもありえよう。しかし、ユトリロが死ぬまで驚嘆に値する信念をもって「聖女である私の母……」と言っていたことを思い起こすと懐疑的にならざるを得ない。
 ユトリロの飲酒癖に責任があるのは、単にマドレーヌばあさんだけでなく、アル中の治療後、また彼を再発に追い込んだ「丘」の人々にも、彼女とともに共同責任があるのだ。彼はすでに絵を描き始めており、彼の拙劣な絵も百スー(五フラン)か、十フランの値打ちがあった。彼を昼食に招待すると、帰り際に彼は水彩画かグワッシュの小品、テーブルの片隅に、急いで描いたクロッキー風の絵などを残していった。彼に気前よく振舞わせるため、人々は彼に酒を飲むよう勧めた。彼は時々、次のように言って断ったのに……。
「いや、アルコールは欲しくないんですよ、本当に…。それではブドウ酒の水割りをください」
「ブドウ酒の水割りですって? 頭がおかしいんじゃないですか?」と、赤ブドウ酒を水で割ることを認めない招待主たちは無分別に言った。そこで、彼はブドウ酒をコップで二杯、三杯、さらにそれ以上も飲むことになる。そして、彼は気分を良くして、モンマルトル風景を描き始めるのであった。すべての酒場の奥の部屋、管理人の家、そして何軒かの商店にも、カンソン社製のスケッチブックと水彩画用の小型の絵具箱が彼のためにいつも備えつけられていた。この傷つきやすい男を落ちぶれさせたのは、嫌悪の情を催させるほど貪欲なこれら〈正直な人々〉なのである。
      ジャン=ポール・クレスペル『ユトリロの生涯』佐藤昌訳 美術公論社 一九七九年二月五日発行 93〜96頁


クレスペルは、「モーリス・ユトリロは酒を飲むために絵を描いたが、絵を描くために酒を飲むことは決してなかった」(112頁)と書いている。筆者は画家の孤独を描くために、内的な閉鎖性ではなくモンマルトルの人々の口にのぼったユトリロの奇矯な振る舞いを列記し、画家の才能を賞賛するために絵画の批評によってではなくアルコールを取り込む底なしの胃袋と深酔いが手先の震えや翌朝の頭痛に影響しなかったことによって説明している。彼の選んだ方法は楽しい読み物としては完全に成功しているが、「クレスペルはユトリロの絵を表現するために酒(の話)を書いたが、酒(の話)を書いたためにユトリロの絵を表現することはなかった」と揶揄してみたくもなる。いずれにしても、モンマルトルでの騒々しい出来事をピカレスク風にまとめ上げ、登場人物にヴォードヴィルの小粋な会話を交わさせ、グランギニョルのけばけばしい衣装をまとわせ舞台に上げる彼の筆致には並々ならぬものがある。クレスペルによると、ユトリロは一日にブドウ酒を「十あるいは十二リットル」飲み干したそうである。酒が切れるとかんしゃくを起こし、それでも見つからないとわかると、下宿先の主人の「妻が取っておいたオーデコロン一年分五リットルのほか、小ビンに入った絵画用ワニスまで飲んでしま」(203頁)い、画商のズボロウスキーがプレゼントした鉄道模型の「機関車の燃料アルコール」(243頁)まで手をつけてしまったという。画商は中毒治療のために病院に収容されたユトリロのもとにワインのビンを持っていったが、喜んだユトリロが手許から落としてしまった日のことを思い出している。割れたビンの破片を取り除きながら、この高名な画家が床に這いつくばって頬をワインに湿らせ舌を突き出している姿を見て、画商は思わず顔をそむけた。
ユトリロは一方で、「気違いだと思われることを絶えず恐れていた。入院するたび、彼は自分が狂人ではないことを示すため、一生懸命上手な絵を描き、「もし私が気違いだったら、こんな絵が描けますか?」と看護人たちに尋ねた」という。アルコール中毒と精神異常の厳密な区別は、しばしば彼の口喧嘩で用いられる格好の自己弁護となる。