(その五)オムスクの公衆浴場

町じゅうに公衆浴場は二軒しかなかった。一軒は、あるユダヤ人の経営で、個室に仕切られていて、一つの個室が五十コペイカの貸切りで、上流階級の人々の専用のようになっていた。もう一軒が主として民衆の浴場で、古くて、きたなくて、せまくて、わたしたち…

(その五十一)裏切り

わたしが裏切り者を讃美し、彼らを愛するのは、たぶん彼らに見られる倫理的孤独――わたしはこれを自分にも熱望しているのだが――によるのではないかと思う。この孤独への嗜好こそわたしの自恃の表徴であり、自恃はわたしの力の顕示であり、その使用目的であり…

(その百二十一)ようちゃん

ぺたぺたというような軽い靴音がうしろから走ってきて、だれかが肩を叩いた。ふりむくとやっぱり、ようちゃんだった。彼女はいつも、きゃしゃな足によく似合う、やわらかい革の横で留める靴をはいていて、あまり足をあげないで走るから、こんな音になる。よ…

(その百二十)ナナオサカキ

たくさんの渓流に洗われた頭 四つの大陸を歩いてきたきれいな足 鹿児島の空のように曇りなき目 調理された心は驚くほど新鮮で生 春のサケのように活きのいい舌 ナナオの両手は頼りになる、星のように鋭いペンと斧 アレン・ギンズバーグ

(その百十九)ナスターシャ・フィリポヴナ

「残念だ! じつに、残念だ! 破滅した女だ! 気の狂った女だ!……だが、そうなると、公爵に必要なのはナスターシャ・フィリポヴナではないぞ……」 ドストエフスキー『白痴』上巻 新潮文庫版 木村浩訳 新潮社 昭和四五年一二月三〇日発行 三三一頁

(その百十八)ガヴリーラ・アルダリオノヴィチ・イヴォルギン

実際のところ、金もあり、家柄もよく、容貌もすぐれ、教育もあり、ばかでもなく、おまけに好人物でさえあり、自分の思想をもたず、まったく《世間並み》の人間であることぐらいいまいましいことはないであろう。財産はある、しかしロスチャイルドほどではな…

(その百十七)光晴

ちくちくする芝生に背中をつけた姿勢でのけぞると、逆さまになった林の先端だけが見えた。杉や小楢が自生する林は体育館と墓地に挟まれていて、忘れられたようにいくつかの遊具があった。鳥の糞だらけのバンガローや車輪が錆びてうまく滑らないロープウェイ…

(その百十六)ミディPスメル13

三人の浮気相手とつつがなく恋愛をしていたミディPスメル13は、四人目を申し出たいちばん若い男に殺されたが、彼のなまえを最後までおぼえられなかったのが唯一の心残りだった。

(その百十五)フェルディシチェンコ

それは年のころ三十ばかりの、背丈の低くない、肩の張った、赤毛の大頭の男であった。その肉づきのいい顔は赤らみ、唇は厚く、幅広の鼻は低く、小さなどんよりした眼は皮肉の色を浮かべて、まるでひっきりなしに瞬きしているように見えた。全体的に見て、こ…

(その百十四)プリンシパル倉敷ルロイ

「もっと働こう」がモットーのプリンシパル倉敷ルロイは、意識がこと切れた瞬間ですら全身をながれる血の速度を上げようとひたすら心拍を速めていた。

(その六)ダイヤー(皮革染色業)

ほんとうに月の支配を受ける日々があった。 彼は落ち着きを欠き、アリス・ガルでいっぱいになっていた。水道のトンネルが完成すると、パトリックはウィケット・アンド・クレイグ皮なめし所に職を見つけた。その新しい乾いた世界で彼の肉は引きしまり、湿っぽ…

(その百十三)リバプールスイート吉永

リバプールスイート吉永の闘争的な性分は、けんかっ早い短命さで発揮されることがなかったために周囲の眼につきにくかったが、だれもが彼に一目置かざるをえなかったのは、目には目を、歯には歯をという前論理的な復讐の思考をすっかり血肉としていたからだ…

(その十七)ハンフリー・ボガード(2)

年をとることによって得られた彼の洗練さは、最も驚嘆すべきものだろう。この頼もしい人物が、肉体の力や、軽業師的な身ごなしの柔軟さによって、スクリーン上で目立ったことは一度もなかった。つまり、ゲーリー・クーパーのようだったことも、ダグラス・フ…

(その百十二)ヒースロー喜一郎

ヒースロー喜一郎は強盗に必要なすべてを備えていた。自分のものではない金品を欲することと手にしたあぶく銭を躊躇なく投げ出すこと。一瞬の所有者となることを運命づけられた男は、彼がこの社会に生を受けた全ての証を売りさばき、追っ手の執念深い追跡を…

(その百十一)高貝光則

一九七〇年に入って秋田県の出稼ぎ労働者の数が六〇〇〇〇人を越えたとき、そのひとりであった高貝光則の労働時間は月に五〇〇時間の大台に乗るかに思われた。二四時間と三六時間のシフトを繰り返し、床につく時間を二時間に削って眠りながらベルトコンベア…

(その百十)憂鬱症者

憂鬱症者。ーー憂鬱症者とは、自分の悩み、自分の損失、自分の欠陥をとことんまで考え詰めるに足るだけの精神力を持ち、またそういう精神力を働かせることへの喜びを持つような人間である。しかし彼が自分の身を養っている領域は狭小にすぎるので、ついには…

(その百九)パイロット

「ハイ」 その人は顔を上げて、最初にギターを、そして次にミルクマンを見た。 「それはどういう言葉だい?」その人の声は快活だったが、しかし棘が含まれていた。ミルクマンは巧みにオレンジの皮をむいているその人の指をじっと見つめていた。ギターはにや…

(その百八)ジョージ・バーナード・ショー

バーナード・ショー氏は、彼と意見を異にする人からも、そして、(もしあれば)彼と意見を同じくする人からも(と私は思うのだが)、いつも、ふざけたユーモリスト、目を見はらせる軽業師、早変りの芸人のように考えられている。彼の言うことを真に受けては…

(その五十)アルクホリック

冷蔵庫のドアを、開けたり閉めたりしていた。日本酒の冷えた瓶と、プラスティックの茶色いドアが交互に眼に映った。不思議なことに、それ以外のものは眼に入らなかった。いや、そういうと嘘になる。まだしらふのうちは、酒を飲みだすと長期戦になることがわ…

(その百七)ララ

エキセントリックな人間というものは、一つ屋根の下に住んでいると癪のたねになることがある。例えば私の母は、奇妙なことに、ララのことをただの一度も私に語ろうとはしなかった。ララを一番愛したのは、彼女が遠くから嵐のようにやってくるのを見ていた人…

(その百六)高階充

東京からひとりの女の子が越してきたらしいという噂が広まったのは、房枝が盆の迎え火の準備をしていたときだった。母親の昭子が縫製工場に出ていたため、昼ご飯の準備をしていた房枝が、食器を並べるために盆提灯につかう和紙や竹ひごをどけていると、いと…

(その百五)バディ・ホールデン

彼があまりにしなさすぎたことは眠ること、あまりにしすぎたことは飲酒で、多くの人が彼の後の発狂を、才能が誘惑に負けて堕落する教訓劇として解釈していた。しかし、この頃の彼の生活は、一日の時間を繊細に割りふることで健全で微妙なバランスを保ってい…

(その四十九)編集

(O=マイケル・オンダーチェ、M=ウォルター・マーチ ――引用者注) O あなたの実践的な映像編集方法について、もっと教えていただけますか。 M ショットをつなげてシーンを組み上げるという作業は、三つの重要な選択の連続なんだ。三つの選択とは、「ど…

(その百四)パット・ギャレット

パット・ギャレット、理想的な人殺し。公的な人物、医師の心。かれの手は毛深く、傷あとがあり、ロープで痛めつけられていて、手首に生涯消えないむらさきの痣があった。理想的な人殺しであるのはかれの心がひがんでいなかったからだ。通りでだれかを殺して…

(その六)若い芸術家

立ちどまると一面の星空とカエルたちのコーラス。やっとさがしあてた家のあたたかい電灯の光の下で、谷川俊太郎と武満徹がビリー・ザ・キッドのピストルのはなしをしていた。石原慎太郎は輪ゴムのパチンコでハエをうちおとしていた。影の方にまだ何人かいた…

(その百三)ヤニス・クセナキス

ヤニス・クセナキスは一九二二年にブライラ(ルーマニア)に生まれた。一九三二年に両親の祖国ギリシャにかえり、スペツァイ島のギリシャ・イギリス学園にはいる。十二歳のとき音楽をこころざす。一九四〇年宛ね工科大学にはいり、同時に抵抗運動にくわわる…

(その百二)ニコラス・テメルコフ

彼は列車でトロントに向かった。彼の村の人間が大勢いて、見知らぬ者の中に入らずにすんだ。でも、仕事がなかった。それで北へ向かう列車でサドベリーの近くのカパークリフに行き、そこのマケドニア・パン屋で働いた。食事と宿付きで月に七ドルもらった。六…

(その百一)ダニエル・ストヤノフ

北アメリカへの移住の道を明るくする出来事は、トーキー映画の出現だ。サイレント映画は、娯楽以外には何ももたらさない。顔にぶつけられるパイ、百貨店から熊に引きずりだされるしゃれ男――すべての出来事が言語と議論ではなく、運命とタイミングによって決…

(その百)不適合者

この男は敏腕ではなかった。かれの周辺では何もかもがうまくゆかず、かれは自信をもてなかった。アパートからは幾度も追い立てを喰い、借金で首が廻らなかった。住居が二重に人手に渡ったくらいでは、まだそこにへばりついていた。しかし、しょっちゅうの引…

開眼

映画の撮影において、役者の開眼がいかに重要な要素かはひと言では語り尽くすことができない。主演を張るような役者にかぎっていうと――かれらの多くは傲慢で、鏡を眺めた時間がだれよりも長いという理由だけで被写体としての自己を絶対視するし、かといって…