(その四十八)遺言

作家のサマセット・モームは、「人を死に至らしめるのは記憶の重みである」という意味の言葉を残して自殺した。九一歳だった。遺言をしたためた便箋は、インクをよく渇かしてから、ふだんそうしていたようにきれいな四つ折りにたたまれた。かれは、書きかけ…

(その四十七)アルバム

その子はアルバムのページをめくるのが大好きだ。どれほど輪郭がぼやけていても、いつも母親を大勢のなかから見つけだせる。写真のなかの、恥ずかしがり屋で過剰に自己防御する表情のなかに、彼は自分自身の女性ヴァージョンを認める。そのアルバムのなかで…

(その五)社会復帰プログラムの専門家

ルーリオがアパートメントにひとりでいたとき、フリッツが帰宅した。 「買い物に出かけています」とルーリオは大男の質問に答えた。「お帰りなさい、リースさん。よかった。やっとお目にかかれて」 「フリッツだ」とフリッツは呼び名を指示した。「すっかり…

(その四)山師

少なくなってきた家産を盛り返すために、鉱山に手を出した。カーキ色コールテンの猟服をつくって、腰に鳶口の子供のような石割をぶらさげ、売りかたの技師に案内されて、群馬や福島の境の山また山をみてあるいた。三日で二十五里も歩いてへとへとになりなが…

(その三)上海の苦力

上海の苦力たちは、寧波あたりから出てきた出稼ぎの細民で、なかには、倒産しかけた一家を助けるため、資金稼ぎに出てきている商人くずれなどもいる。師走前には、梶棒をすてて、裸のからだに泥を塗って、強盗を働くものもあり、青幇党の杯をもらって、ばく…

(その二)出稼ぎ者

出稼ぎ労働者はふつう、出稼ぎ農民と同義語としてうけとられている。六〇年をひとつのさかいとして、農民は都会の工事現場や工場での最底辺労働者となってはたらくようになった。村からでてきた理由は、それぞれさまざまで、そのさまざまな理由によって、出…

(その一)シチョウ

ふと見ると、細面の、スッキリとしたいい女が人込みの中に立って、あっちこっちを心もとなげに見まわしていた。そのただならぬ様子に釣られて、一人立ち二人立ち、彼女のまわりに次第に人垣を作って行った。彼もその一人だった。 若いのに、櫛巻に結って、年…

(その四十六)仕込み

小沢 世話講談というものは、話にあまり偉い人が出てこないのが特徴ですよね。 神田 出ないです。庶民が主人公ですから。 小沢 たとえば『小猿七之助』はばくちから始まりますし、とにかく悪さをするような人が主人公になっている。 神田 二宮尊徳は出てこな…

(その四十五)初稽古

「坊や、二階へ上がれ」 談志は突然そう云うと、留守番電話にメッセージを吹き込みはじめた。 「談志です。今、弟子に稽古をつけてます。初めての稽古なので電話に出られません。一時間ほどしたら改めて電話をください」 僕を見て、 「そういうことだ」 と云…

(その四十四)リングイン

ジャイアント馬場は常人離れした大きさという絶対的な記号を持っていた。だが猪木の体格は、外国人レスラーの中に入ってしまえばむしろ小柄な方だ。 強さは身体の大きさに比例する。だから大きな馬場は小さな猪木より強いと人は見る。猪木はその常識を覆すた…

(その四十三)ワーク

山内はアマチュア時代から得意技のベリー・トウ・ベリー・スープレックスを掛けようと、フレッドの腰に手を回したが、フレッドが重心を落として踏んばっているいるので崩れてしまった。 「ハッハッハ。いくらユーがオリンピック代表でも、ウエイトの思い相手…

(その四十二)マッチメイク

リーグ戦やトーナメント戦は、まず最初に優勝者を決めて、そこから逆算してマッチメイクを練っていく。ただ本物のケガなどアクシデントもあるので、その際は状況に応じてシナリオを書き換えていく。 いちばん困ったのは、ブルーザー・ブロディに振りまわされ…

(その四十一)ケッフェイ

ケッフェイとはプロレスの真実を教えてはならない、あるいは知らない者のことを指す。プロレスには暗黙のルールがある。新人にそれを教えるタイミングが問題なのだ。みんな薄々プロレス独特のルールに感づいているとは思うが、それは絶対に口に出してはいけ…

(その五)巴里の十五區と十四區

私は十五區と十四區の間に住んでゐたので十五區と十四區のホトンドの町では畫架を立てた事があります。よい畫は少ないが随分澤山かきました。朝出る時はオックウですが出てしまへば無中になれました。 巴里の古い家が面白いと思ひました、コトに煙突とビラが…

(その四十)日常のいざこざ

日常の出来事、それに堪えることが、日常のいざこざ。Aは、Hに住むBと、ある要件について契約をむすぶことになる。そこで、前もって打合わせておくために、Hへ出かける。往復それぞれ十分間で、そうそうに戻ってくると、この猛スピード振りを自慢する。…

(その三十九)吝嗇

彼は、自分の食卓から落ちこぼれたものを、さもしく拾いあつめて喰う。そのため、やがて上の食卓で食べることを忘れてしまい、そのためパン屑も落ちてこなくなる。 フランツ・カフカ「罪、苦悩、希望、真実の道についての考察」(『決定版カフカ全集第三巻』…

(その三十八)祝儀

上方の寄席は、お茶子が座布団を返したり、めくりを返したりする。客の祝儀も芸人に直に渡さないで、お茶子に渡す。するとお茶子が箸の先に祝儀のお札をはさんで、高座の前に立てていく。

(その四)パリ十四区

建築に注目するのではなく、人間に注目したもっと別の地誌を描いてみれば、もっとも静かな街区、あの辺鄙な十四区がその真の光のもとに浮かび上がってこよう。少なくともすでにジュール・ジャナン〔十九世紀仏の作家〕は、一〇〇年前にそう考えていた。この…

(その三十七)ピンハネ

勝二が地下鉄に乗った。 その頃、地下鉄は東京に一本、渋谷ー浅草間のいまいう銀座線だけで、料金はどこから乗っても、どこを乗っても二十円。終点から終点まででも、一駅でも同じの二十円。切符には渋谷⇔浅草としか書いていない。どの駅で買っても同じデザ…

(その三十六)ピックポケット

「傷は夢のなかで花を咲かせる」 男はそう言って、指を二本突き出した。まえに一度聞いたことがある。天才と凡人を振り分けるのはほんのささいな特徴だという話を。天井に伸びた男の人差し指と中指は、やすりで研いだみたいに水平だった。たったそれだけのち…

(その三十五)稽古(2)

ある時、先生(福田八之助―注)からあるわざで投げられた。自分は早速起きあがって、今の手はどうしてかけるのですときくと、「おいでなさい」といきなり投げ飛ばした。自分は屈せず立ち向かって、この手は手をどう足をどういたしますと、しつこくきき質した…

(その三十四)稽古

円鏡(現円蔵)と一緒に、いつだったか文楽師匠のところに『寝床』を習いにいったことがある。文楽は、根が不器用な人だからなのか、何と高座と同じに力を込めて私共の前で一席演ってくれた。円鏡と二人で恐縮もいいところで、帰り道、 「おい、竹ちゃん(円…

(その三十三)合図

次の日午後早く、列車をおりたときは、サン・ディエゴの町は、陽気にゴッタがえしていた――国境向うの、競馬シーズン最初の土曜日に引きよせられた連中で、いっぱいだった。ロス・アンジェルスの映画屋、インペリアル・ヴァレリーの百姓、太平洋艦隊の水兵、…

(その三十二)録音

入所当初は何がタブーかもわからなかったから、僕は無茶なことをして皆を驚かせた。そんなジェイルの手紙のやりとりでこんなエピソードがある。 当初僕は英語の授業を率先して受けていて、その際に先生が僕1人で宿題ができるようにと、ポータブル・カセット…

(その九十九)森崎偏陸

スクリーンのまえで、バスター・キートンはそこに境などないかのように軽々と跳び越え、ジャン=リュック・ゴダールはその手前で絶望的な欲情にふけらせた。スクリーンのてまえで現実と想像がせき止められる(越えられる)瞬間を描く欲望は、いつでも映画を…

(その三) ストーリー・ヴィル

「盛り場の王」トム・アンダーソンはランパートとフランクリンの間に住んでいた。彼は毎年、ニューオリーンズの売春婦をひとりのこらずリストアップした青表紙を出版していた。これは町の盛り場へのガイドブックで、カスタムハウス一二〇〇番のマーサ・アリ…

(その三十一) ヘンリー・ダーガー

山手線の車内。水玉模様のミニスカートをはいた女の子。父親と祖母といっしょに行楽にでかけた女の子は、朝方降っていた雨が止んだことをとても喜んだが、折りたたみの傘が邪魔になった。同じ水玉模様で揃えられた傘は、しばらく女の子の手のひらでもてあそ…

(その三十) 慣れ

「そんなことだろうと思ってたよ」と期待してた表情も見せず、にんじんはそっけなく答える。 にんじんはそれに慣れている。ある事柄に慣れると、それがついにはちっとも可笑しくはなくなるのだ。ジュール・ルナール「にんじん」 佃裕文訳(『ジュール・ルナ…

(その一)ハリウッド・ビジネス

レイモンド・チャンドラーは、自身の脚本作である「見知らぬ乗客」を、五週間と一日で仕上げた。その脚本には、その後多くの変更が加えられ、「去勢され」た。本人がテロップに名が刻まれるのを拒もうかと考えたほどだった。

(その九十八) ジャン・パウル

ジャン・パウル。――ジャン・パウルは、非常に多くのことを知ってはいたが、しかし学問を持たなかった。いろいろな芸術におけるさまざまな呼吸に精通してはいたが、しかし芸術を持たなかった。享受できないと見なすものは何ひとつ持たなかったが、しかし趣味…