(その百十八)ガヴリーラ・アルダリオノヴィチ・イヴォルギン

 実際のところ、金もあり、家柄もよく、容貌もすぐれ、教育もあり、ばかでもなく、おまけに好人物でさえあり、自分の思想をもたず、まったく《世間並み》の人間であることぐらいいまいましいことはないであろう。財産はある、しかしロスチャイルドほどではない。家柄はりっぱなものだが、いまだかつて世に知られたことはない。風貌はすぐれているが、きわめて表情にとぼしい。教育はちゃんとしていながら、とくに専門がない。分別は持っているが、自分自身の思想は持っていない。情はあるが、寛大さに欠けている。何から何まで、こんなふうである。世間にはこうした人たちがうようよしており、われわれが想像しているよりもはるかに多いのである。彼らはほかのすべての人びとと同様、大別すると二種類に分けられる。一つは枠にはまった人びとであり、もう一つはそれよりも《ずっと聡明な》人びとである。前者は後者よりも幸福である。枠にはまった平凡な人にとっては、自分こそ非凡な独創的な人間であると考えて、なんらためらうことなくその境遇を楽しむことほど容易なことはないからである。ロシアの令嬢たちのある者は髪を短く切って、青い眼鏡をかけ、ニヒリストであると名乗りをあげさえすれば、自分はもう眼鏡をかけたのだから、自分自身の《信念》を得たのだとたちまち信じこんでしまうのである。またある者は何かしら人類共通の善良な心もちを、ほんのすこしでも心の中に感じたら、自分のように感ずる人間なんてひとりもいない、自分こそは人類発達の先駆者であると、たちまち信じこんでしまうのである。またある者は、何かの思想をそのまま鵜のみにするか、それとも手当たりしだいに本の一ページをちょっとのぞいてみさえすれば、もうたちまちこれは《自分自身の思想》であり、これは自分の頭の中から生れたものだと、わけもなく信じこんでしまうのである。もしこんな言い方がゆるされるならば、こうした無邪気な厚かましさというものは、こうした場合、おどろくほどにまで達するものなのである。こんなことはとてもありそうもないことであるが、そのじつ、たえずお目にかかる事実なのである。この無邪気な厚かましさ、この自己とその才能を信じて疑わない愚かな人間の信念は、ゴーゴリによってピロゴフ中尉という驚嘆すべき典型のなかにみごとに描きだされている。ピロゴフは自分は天才である、いや、あらゆる天才の上に立っているということを、一度として疑ったことはないのである。そんな疑問を一度だっていだいたことがないほど信じきっているのである。もっとも、こんな疑問などというものは、彼にとってまったく存在していないのである。この偉大なる作家はその読者の侮辱された道徳心を満足させるために、ついにはこの男をひどい目にあわさなければならぬ羽目に陥ったが、この偉大な人物がただちょっと身震いしたばかりで、拷問に疲れはてた体に力をつけるために薄焼きの肉饅頭をぺろりとたいらげたのを見て、あきれて両手をひろげたまま、読者の憤激にまかせてしまったのである。わたしはこの偉大なるピロゴフが、ゴーゴリによってこんな低い官等にいるときにとらえられたことをつねづね残念に思っていた。なぜなら、ピロゴフはどこまでもうぬぼれの強い男だから、年とともに肩章の《金筋》が幅をまし数をふやすにつれて、ついにはたとえば軍司令官になるのだ、と空想するくらい彼には朝飯前だからである。いや、空想するだけでなく、そう信じて疑わないのである。将官に昇進するからには、どうして軍司令官に任命されないことがあろうか? いや、こうした連中のいかに多くの者が、後年、戦場においてどんなに大きな失敗をやらかすことだろう。いや、それにしても、わが国の文学者、学者、プロパガンジストのなかにはいかに多くのピロゴフがいたことだろう。わたしはいま『いた』と言ったけれども、しかしもちろん、いまだっているのである……
 この物語の登場人物たるガヴリーラ・アルダリオノヴィチ・イヴォルギンは、後者の種類に属している。彼は全身、頭のてっぺんから足の爪先まで、独創的な人間になろうという希望に燃えてはいるが、やはり《ずっと聡明な》平凡な人の種類に属していた。しかし、この種類に属する人びとは前にも述べたように、前者よりもずっと不幸なのである。なぜなら、聡明な《ありふれた》人というものは、たとえちょっとのあいだ(あるいは一生涯を通じてかもしれないが)自分を独創的な天才と想像することがあっても、やはり心の奥底に懐疑の虫が潜んでいて、それがときには、聡明な人を絶望のどん底まで突きおとすことがあるからである。たとえ、それに耐えることができたとしても、それはどこか、心の奥底に押しこめられた虚栄心に毒されてのことなのである。もっとも、われわれはあまりにも極端な例をあげすぎたきらいがある。この聡明な人たちの大部分は、決してそんな悲劇的なことにはならないですむのである。まあ、せいぜい年をとってから、いくらか肝臓を悪くするくらいのものである。しかし、それはともかく、あきらめてそれに服従するまでに、こうした人たちはどうかすると非常に長いこと、若い時代からかなりの年輩になるまで、軽々しい振舞いをつづけることがある。しかも、それはただ独創的な人間になりたい一念からなのである。いや、それどころか、奇怪な出来事にお目にかかる場合さえある。ときには独創的な人間であることを欲するあまり、潔白な人が下劣な行為をあえてすることさえもあるのである。しかも、こうした不幸な人のなかには、単に潔白なばかりでなく善良ですらあり、自分の家庭では神のごとき存在であり、自分の労働によってその家族ばかりでなく、赤の他人の世話までやいているくせに、どうだろう、一生のあいだ心を安めることができないのである。そのご当人にとっては、自分がりっぱな人間としての義務をはたしているという考えが、すこしも心を安らかにせず、慰めにもならないのである。いや、かえってその心をいらだたせるのである。《ああ、おれはなんというつまらないことに大事な一生を棒に振ってしまったんだろう! なんというつまらないことが足手まといになって、おれが火薬を発見するのを妨げたことか! これさえなかったら、おれもひょっとすると、いや、きっと、発見したにちがいない――火薬かアメリカか、それはまだはっきりとはわからないが、とにかく間違いなく何かを発見したにちがいないんだ!》こうした人たちの何よりも著しい特色は、いったい何を発見しなければならないのか、また何を一生のあいだ発見しようとつとめているのか、火薬なのか、それともアメリカなのか、それが生涯どうしてもわからないという点なのである。しかし、発見のための苦悩とそれにたいする思慕の情は、実際、コロンブスガリレオのそれに比肩できるくらいのものである。
 ガヴリーラ・アルダリオノヴィチもまさしくこのような道をたどりはじめたところであった。しかも、それはほんのはじまったばかりである。まだまだこれからさき、うんと軽々しい振舞いをしなければならないのである。自分には才能がないという深刻な自覚と、一方ではそれと同時に、自分こそはりっぱに自主性をそなえた人間であると信じようとするおさえがたい欲求とが、すでに少年時代からたえず彼の心を傷つけてきたのであった。彼は嫉妬心の強い、激情的な欲望を持った、生れながらに神経のいらいらしているような青年であった。その欲望が激情的なのを、彼は欲望が強烈なのだと考えていた。頭角をあらわしたいという激しい欲望のままに、彼はどうかするときわめて無分別な飛躍をあえてしようとすることがあった。しかも、いざそれを決行する段になると、彼はそれを決行するにはあまりに利口すぎるということになってしまうのだった。それが彼を悩ましたのである。ことによったら、彼も機会さえあれば、自分の空想を実現するために、極端に卑劣なことをあえて決行したかもしれない。だが、土壇場まで押しつめられると、彼は極端に卑劣なことをしでかすには、あまりにも正直すぎるということが判明するのであった(そのくせ、ちょっとした卑劣なことなら、いつでも断ったりしないのだ)。彼は自分の家庭の貧困と零落とを、嫌悪と憎しみの情をもってながめていた。彼は母親の世評と性格が、いまのところ自分の栄達のおもな支柱になっていることを、自分でもよく承知していたのである。エパンチン家へ出入りするようになったときも、彼はさっそく《卑劣なことをするなら、もうとことんまで卑劣な行為をやらなくちゃ。ただ勝ちさえすればいいんだ》と自分に言いきかせた。しかし、ほとんど一度もとことんまで卑劣な行為を押し通したことはなかった。また、なぜぜひとも卑劣な行為をせねばならぬと考えたのであろうか? アグラーヤとの一件ではすっかり度肝をぬかれてしまったが、それでも彼女との交渉をあきらめたわけではなかった。そのくせアグラーヤが身を落して、自分のような者を相手にしてくれようとは、ただの一度だってまじめに信じたわけではないが、万が一の場合を考えて、ずるずると引のばしておいたのである。その後ナスターシャ・フィリポヴナとの一件が持ちあがったとき、彼は忽然として、すべてのものを獲得するのは金の力だけであるとさとったのである。《卑劣なことをするくらいなら、とことんまで卑劣に振舞うべきだ》と彼はそのころ毎日のように自己満足を感ずると同時に、いくらか恐怖を覚えながら、くりかえし自分に言いきかせていた。《いったん卑劣なことをする以上、とことんまでやりぬくことだ》と彼はたえず自分を納得させていた。《月並みな連中はこんなとき尻ごみするものだが、おれは決して尻ごみなんかしないぞ!》アグラーヤを失い、いろいろな出来事をいやというほど打ひしがれて、彼はすっかりしょげかえってしまった。そして、あの気の狂った男が持ってきて、やはり気の狂った女が彼に投げ与えた金を、実際、公爵の手もとへ返してしまったのである。この金を返してしまったことを、彼はたえず誇りに思っていたものの、その後何百回となく後悔したものであった。当時公爵がペデルブルグに残っていた三日間というもの、彼は実際に泣き通したものであったが、そのくせこの三日のあいだに、彼は早くも公爵を心から憎むようになったのである。というのは、あれだけの大金を返すとうことは、《とても誰にでもできる芸当ではない》と信じていたのに、公爵があまりにも同情的な眼で彼をながめすぎたからであった。しかし、このやるせいない想いも、要するに、たえず打ちのめされている虚栄心にすぎないのだ、という正直な反省が、おそろしく彼を苦しめた。それから長い時がたって、よくよく考えてみたあげく、彼はアグラーヤのような罪のない一風変った娘が相手なら、まじめにやりさえすれば、うまく事を運ぶこともできたのにと、ようやく納得したのである。後悔の念が彼の心を蝕んだ。そのため彼は勤めをなげうって、憂愁と煩悶のなかに身を沈めたのであった。彼は両親とともにプチーツィンの厄介になって暮していたが、おおっぴらにプチーツィンのことを軽蔑していた。そのくせ、プチーツィンの忠告によく従い、ほとんどいつもみずからその忠告を求めるほど、抜け目なく立ちまわっていたのである。ガヴリーラ・アルダリオノヴィチは、プチーツィンがロスチャイルドのようになろうとも思わず、またそれを一生の目的としてかかげていないことを憤慨していた。『高利貸をするからには、とことんまでそれを押し通さなきゃ。世間のやつらをうんとしぼって、その血で金をつくりださなくちゃ。心を鬼にして、ジュウの王さまになることだね』しかし、プチーツィンは慎みぶかくもの静かなたちだったので、ただにやにや笑うばかりであった。ところが、あるとき、これはなんとしてもガーニャとこの問題についてまじめに話しあう必要があると感じて、彼は一種の威厳さえみせてそれを実行したことがあった。彼はガーニャにむかって、自分は決して不正なことをしていないのだから、自分のことをジュウ呼ばわりするのは間違っている、またたとえ金がいまのように値打ちがあるのも、なにも自分の責任ではない、自分は誠実で正直に振舞っているし、自分は要するに、《このような》仕事の代理人にすぎないのだ、また最後に自分は仕事が几帳面なおかげで、りっぱな人たちからも知遇を受けているし、事業もますます発展しつつあると論証したのであった。『ロスチャイルドなんかにはならないよ。それに、ならなくちゃいけないってわけもないし』と彼は笑いながらつけくわえた。『まあ、リテイナヤ街に家を一軒、いや、ことによったら二軒も買って、それでいいことにするよ』《しかし、ひょっとしたら、三軒買えないともかぎらないな!》と彼は内心で思ったが、決してそれを口に出すようなことはなく、その夢を胸の奥深く秘めておくのだった。天はこうした人物を愛し、やさしくいつくしむものである。したがって、天はプチーツィンに三軒どころか、四軒の家をもって酬いるにちがいない。なぜなら、彼はほんの子供の時分から、自分は決してロスチャイルドにはならないということを、ちゃんと承知していたからである。しかし、天はどんなことがあっても四軒以上は授けてくれないだろう。こうして、プチーツィンの事業はそれで終りを告げるのである。

ドストエフスキー『白痴』上巻 新潮文庫版 木村浩訳 新潮社 昭和四五年一二月三〇日発行 二六三〜二七〇頁