(その六)ダイヤー(皮革染色業)

 ほんとうに月の支配を受ける日々があった。
 彼は落ち着きを欠き、アリス・ガルでいっぱいになっていた。水道のトンネルが完成すると、パトリックはウィケット・アンド・クレイグ皮なめし所に職を見つけた。その新しい乾いた世界で彼の肉は引きしまり、湿っぽくぎこちない動きは少なくなった。
 一日中、そのサイプリス通りの皮工場で皮を切りながら、彼は彼女のことを思った。仕事の口はまだ滅多になく、彼が雇われたのはアリスの友人たちのおかげだった。巻いた皮を床に広げる棒を肩で少しずつ押しながら、パトリックは先切り用のナイフを持って茶色の皮の中に踏み入り、皮を直線に切りとっていった。自分の担当の線を切りおえると、ほかの誰かが切り手の通路から出てくるまで、じっと立って冷たい空気を吸い込んだものだ。染め手の作業場からのにおいはもう気にならなくなっていた。雨が降ったときだけ、においは体に襲いかかった。
 彼は三人の先切り役のひとりだった。彼らのナイフは腕の進み方にあわせてジグザグに進み、まるで泥の川を歩いてそれを支流に切り裂いていくみたいに、彼らは裸足で仕事をした。その技術は、体のあらゆる部分が均衡をとることを要求した。仕事が終わると中庭で水を浴びるのだが、それでもアリスは彼の体に皮のにおいをかいだ。丸石の上に立った彼らの列の上に、水と蒸気が、一気にはげしく浴びせられた。彼らは十秒間だけ水をもらえた。皮を染める者たちはもっと長くもらえるが、彼らのにおいはひどく、けっして取れなかった。
 染めの作業は、倉庫のとなりの中庭で行なわれた。円形の池がいくつか石のあいだに切ってつくられていた――男たちがそこに飛び込み、赤と黄土色と緑の中に腰までつかった。屠ふられたばかりの動物の皮を抱きかかえて飛び込むのだ。直径四フィートの丸い池の中で、跳ねたり踏んづけたりして、前の日には生きた動物の一部だった皮の毛穴に、しっかりと染料をしみこませるのだ。そして男たちは、濡れた皮をうしろに引きずりながら、首まで色をつけて外に出てきた。まるで自分たちの体からその皮を剥がしたかのように見えた。彼らは、さまざまな国々に入るようにさまざまな色の中に飛び込んだ。
 それぞれの国の代表である、そこに一緒に立つ染め手が欲しがるのは、煙草だった。緑に身をつつみ、黄色の男に話しかけながら、五分間の休みに立ったまま煙草を吸う。煙草の新選な活力を吸い入れ、肺の奥までそれを飲み込み、ぐるっと中でまわし、そして上に吐き出した。それが、すでに彼らの内側深く肉の隅々にしみこんだ鼻を刺すような感触のものを、運とともに取のぞいてくれるようにと願いながら。一本の煙草、肉を通る星の光線が、彼らを浄化するのに十分なのだった。
 パトリックはのちに彼らのことをそんなふうに思い出すだろう。彼らの体はそこに疲れて立ち、頭だけが白かった。もしも彼が画家なら彼らを絵に描いていただろうが、それはいつわりの祝福だった。フロント通りから五百ヤードも離れた市の東地区で、この十月の日に、美しい羽毛を持つように見えるということに、結局、どういう意味があったのか。その絵は何を語るだろうか。彼らは二十歳から三十五歳で、ポーランド人やリトアニア人も何人かいるが、大半はマケドニア人であること。平均して三つか四つの英語の文章を身につけ、「メイル・アンド・エムパイア」や「サタディ・ナイト」は読んだことがないこと。昼のあいだは立ったまま食べること。彼らは歴史上もっとも邪悪なにおいを飲み込んできて、いまもそれを飲み込んでいること。それは肉と皮のあいだの真空にある肉の死なのだということ。この穴に二度と踏み込まないとしても――いまから一年後、彼らはそのにおいをげっぷのように吐き出すだろうこと。彼らは結核で死ぬことになるが、現時点ではそれを知らないこと。冬にはこの絵に描いたような色彩の作業場は、蒸気を出す池のあいだに雪が薄い層をつくって、さらにずっと美しいこと。零度以下の天候で、ほとんど裸の男たちが笛の合図でいっせいに大桶の中におりていき、あとで立って待つあいだは麻布で体をおおうということ。
 冬のただひとつ良いところは、においが消えることだった。彼らは冬には煙草を欲しがらなかった。ほとんど息ができなかったのだ。彼らの口は羽毛のような煙を出した。彼らがじっと立っていると、蒸気が麻布を通って出てきた。蒸気が出なくなったときは、体が冷えすぎていて中に入らなくてはならないとわかった。しかし十月のあいだは、パトリックが休み時間に皮処理場から出て見ていると、彼らは煙草を望んでいた。でも、煙草を吸うことはできないのだった――彼らが入ったり出たりしている溶液の酸がつよいために、炎に触れたら彼らは発火してしまっただろう。
 燃えあがる緑の男。
 彼らが染め手だった。彼らは一日一ドルもらった。六ヵ月以上仕事を続けられる者はなく、やけくその者だけがそれをやった。給水係や皮処理場の作業員などのほかの仕事があった。仕切りのない回廊には、ソーセージと肥料の製造業者がいた。そこでは男たちが塩の中に足首まで入れて立ち、動物の腸から糞や不要な部分を絞りだし、ソーセージの皮になる腸に詰めものをしていた。奥のホールには屠殺場があり、そこでは人がうなり声を出す牛たちのあいだを動いて、牛を大槌で気絶させて死へと向かわせた。その皮が剥がされるあいだ、死んだ目がまだ瞬いていた。十分に換気があることがなく、染めの作業場の酸と同じように、粗塩が男たちの目には見えない結核リューマチをもたらしていた。こうした職業の人々がすべて朝の闇の中に到着し、晩の六時まで働いた。仕事の斡旋屋は、彼ら全員に英語の名前をつけた。チャーリー・ジョンソン、ニック・パーカー。彼らは奇妙な外国語の音節を数字のようにおぼえた。
 染め手にとって、優越感を持つ瞬間のひとつは、一日の終わりのシャワーのときに来た。彼らが熱いパイプの下に立っても、二、三分間は気がつくほどの変化はない――あたかも、役柄から現実世界へと戻ることができない女優のように、彼らは永遠にその青黒い色の中に含まれ、ただ頭脳だけが自由だとでもいうように。そしてそれから青が突然落ちる。その色が体から脱がされ、ひとかたまりになって足首へと落ち、そして彼らは歩みでる。自分が解き放たれる性愛的物語の中に。
 染め手たちの皮膚に残るのは、ベッドの女たちがけっして寄っていかないにおいだ。アリスはパトリックの疲れきった体の横に寝て、彼の首に舌を這わせ、彼の味をそれだと認めながら、染め手たちの妻たちはけっしてこんなふうには夫を味わったりかいだりしないだろうと思った。すべての顔料や粗塩の結晶を取りさったとしても、彼らはまだ井戸の中、穴の中で取っ組み合いをした天使のにおいがする。あかね色の体。
「金持ちのことを教えてあげる」とアリスは言ったものだ。「金持ちはいつも笑ってるわ。自分たちの船や芝生の上で同じことを言いつづけるの。すばらしいじゃないか! われわれは楽しい時間をすこしているね! そして金持ちが酔っ払って人間的なものをめぐって涙もろくなったら、どんなときでも何時間も話を聞かされる。でも彼らはあなたをトンネルや家畜置場に入れておくのよ。彼らは働きも紡ぎもしない。それを忘れないで……彼らがつねに何を手放すのをいやがるか理解しなさい。金持ちとあなたのあいだには、百の柵と芝生がある。彼らに近づいていく前に、パトリック、こういうことを知らなくてはならないのよ――牛とたたかう前の犬が敵の糞の中を転がるみたいにね」


マイケル・オンダーチェ「ライオンの皮をまとって」福間健二訳 水声社 二〇〇六年一二月一〇日発行 一七三〜一七七頁
Michael Ondaatje, In the Skin of a Lion, 1987