(その百八)ジョージ・バーナード・ショー

 バーナード・ショー氏は、彼と意見を異にする人からも、そして、(もしあれば)彼と意見を同じくする人からも(と私は思うのだが)、いつも、ふざけたユーモリスト、目を見はらせる軽業師、早変りの芸人のように考えられている。彼の言うことを真に受けてはだめだとか、何でも擁護し何でも攻撃するとか、人目を驚かし面白がらせるためには何でもするとか言われている。これはすべて的はずれどころか、まるっきり的の裏側にあたっている。ディケンズにはジェイン・オースティンの騒々しい男っぽさがなかった、と言うようなものである。バーナード・ショー氏の有無を言わせぬ強さ、みごとな成果は、彼が徹底的に首尾一貫した人である点にかかっている。その力は、輪をくぐったり逆立ちで立ったりするところにあるなどとんでもない話で、むしろ、昼も夜も自分のとりでにたてこもるところにある。天地幽明の間何が起ころうと、彼は即座に厳重にショー式検証法をそれにあてはめる。彼の基準は決して変わることがない。気の弱い革命家、気の弱い保守主義者が彼について心から憎み(かつ恐れる)ものはまさにこれ、すなわち、そのはかりがお粗末とは言え水平に保たれ、その法則がお粗末とは言え正当に施行されていることなのだ。彼の原則を攻撃するのは結構だ。私もそうしている。しかし、その原則の適用を攻撃できるような事例があるかどうか、私は一つとして知らない。彼は無法を嫌うとしても、個人主義者の無法と同じく社会主義者の無法も嫌っている。熱狂的な愛国心を嫌うとしても、ボーア人アイルランド人のみならず英国人のそれも嫌っている。結婚の誓いや絆を嫌うとしても、無法の愛が作り出すそれ以上に強い絆、それ以上に激しい誓いは、それ以上に嫌っている。司祭の権威を笑うとしても、科学者のもったいぶりをそれ以上にわらっている。信仰の無責任を非難するとしても、それとえらぶところのない芸術家の無責任を、分別ある一貫性に従って、同じく非難している。女性は男性と平等であると言って、すべてのボヘミアンを喜ばせると同時に、男性は女性と平等であると言って、同じ彼らを憤激させる。彼は機械的と言えるくらい公正である。なにか機械のように恐ろしいところが彼にはある。ほんとうに突拍子もなくて、目の回りそうな人、ほんとうに気まぐれで予測のつかない人、それはショー氏ではなくて、陣笠大臣閣下である。マイケル・ヒックス=ビーチ卿は輪をくぐり抜け、ヘンリー・ファウラー卿は逆立ちをする。こういうタイプの堅実な、ごりっぱな政治家こそ、ひらりひらりと立場を変え、進んで何でも擁護するかと思えば、何物も擁護しない人間、その言説をまじめに受け取ってはいけない人間なのだ。三十年後にバーナード・ショー氏がどんなことを言うか、私には手にとるようにわかる。今までいつも言ってきたことをその時も言っているだろう。かりに私がこれから三十年たって、白髭を地面までたらしたまま神々しいばかりのショー氏に会い、「やっぱりご婦人を悪く言うことはできませんよ」と言ったとすれば、この大家長は老いた手をふり上げて、私をなぐり倒すにちがいない。繰り返すようだが、ショー氏が三十年後に何を言うか、今のわれわれにもわかる。しかし、総理大臣アスキス氏が三十年後に何と言うか、そんなことまで予言できるほど星占いや神託にひそかに通じた人が、一人でもいるだろうか。
 ありていに言って、はっきりした信念を持たないことが精神に自由と機敏さを与えると想像するのは、ぜんぜん間違っている。何かを信じる人は、敏活で機知に富む。武器をすべて手元に持っているからである。彼は即座に自分の検証法をあてはめることができる。バーナード・ショー氏のような人物と争う人は、相手が十も顔を持っているような気がすることだろう。同じように、腕のいい決闘者にぶつかった人は、相手の手にする剣が十本もの剣になったような気がするだろう。しかし、そう見えるのはこの相手が十本の剣を手玉にとっているからではなく、一本の剣で真っ直ぐにねらいをつけているからにほかならない。その上にまた、はっきりした信念を持っている人はいつも一風変わって見える。世間とともに変わることがないからである。彼は動かざる星に登った。眼下ではパラパラめくる動き絵のように、地球が次から次へと変わって行く。無数のおとなしい月給取りは、自分を正気な人間、分別のある人間と称している。それはただ、時流に乗った狂気をつかまえてばかりいるから、世の渦に巻きこまれ、あわただしく狂気から狂気へと動いているからにすぎないのだ。


     G・K・チェスタトンバーナード・ショー氏」(『異端者の群れ』所収)別宮貞徳訳 株式会社春秋社 四四〜四六頁