(その十七)ハンフリー・ボガード(2)

 年をとることによって得られた彼の洗練さは、最も驚嘆すべきものだろう。この頼もしい人物が、肉体の力や、軽業師的な身ごなしの柔軟さによって、スクリーン上で目立ったことは一度もなかった。つまり、ゲーリー・クーパーのようだったことも、ダグラス・フェアバンクスのようだったこともない! 彼のギャングや探偵としての成功は、まず彼の我慢強さという能力と、次いでその炯眼とによる。彼の拳固の一撃が持つ効果は、彼の力の強さというよりは、その力を配分する勘の良さの方を表わしていよう。彼は確かにその拳固の一撃を効果的に利用する。だが、特に、それを絶好のチャンスをとらえて使うのだ。彼は滅多に相手をなぐらず、なぐるとすればふつうとは逆の場合に決まっている。しかも彼の手の中には、相手にぐうの音も出させぬ論法、ほとんど知的な武器となったピストルがある。だが、わたしが言いたいのは、ここ十年来徐々にこの人物に押されてきた明白な烙印が、その生来の弱点を際立たせる一方だったということだ。ボガードは、次第に自分自身の死の姿と似てくることで、彼自身の肖像を完成させた。われわれをして、彼の中にわれわれ自身の崩壊の姿そのものを見出されて驚かせ、かつその姿をわれわれに愛させることができたこの俳優の才能には、いくら感心してもこれで十分だということには多分決してならないだろう。従来の映画で、わが身に襲いかかるあらゆる不幸な攻撃により、そのたびに前より少しずつ多く傷つけられてきた彼は、カラー映画では、胃からげっぷを吐き、顔の黄色い、自分の歯を口から吐き出すといったまさにアフリカの末無し川の蛭どもにふさわしい、だが、『アフリカの女王』を無事目的地へと連れてゆく、何とも奇妙な人物になった。また諸君は、『ケイン号の叛乱』において、航海士たちの裁判で証言するあの陰気な顔つきを思い出されることだろう。大分前からこのように死を内に住まわせていたこの人物には、死が外部から襲うことは、大分前から明らかにもはや不可能になっていた。

アンドレ・バザン「神話と社会/� ハンフリー・ボガードの死」小海永二訳(『映画とは何か � その社会学的考察』美術出版社 一九六七年二月二〇日発行 一〇六〜一〇八頁 [初出:『カイエ・デュ・シネマ』誌、六八号、一九五七年二月号])