(その五十)アルクホリック

 冷蔵庫のドアを、開けたり閉めたりしていた。日本酒の冷えた瓶と、プラスティックの茶色いドアが交互に眼に映った。不思議なことに、それ以外のものは眼に入らなかった。いや、そういうと嘘になる。まだしらふのうちは、酒を飲みだすと長期戦になることがわかりきっているから、いくつも予防線を張ることになる。高所恐怖症の人間がどうしても跳ばなければいけない跳躍台の上で、一歩ずつ足の指を前進させるしぐさに似ている。私は酒が好きではない。しかし、跳躍台の上ではするべきことがたったひとつしかないように、引き返すすべはなかった。アルコールの匂いが、鼻先を掠めた気がした。私は、踏み越えるべき線を思い描いていた。飛び越えた先になにがあるかはしらない。いまのところは、眠りがあるだけだ。
 酔いに身を任せて落ち着きたい気持ちと、酔ったら落ち着いて考えるべきことがなにかも考えられなくなるのを恐れる気持ちのあいだで交互に揺れた。埒も明かない選択だ。私は日本酒の瓶を取り出し、テーブルのうえに置いたラムの横に並べた。まだ朝の九時だった。東南向きのアパートの窓から、陽射しが差し込んでいた。黄土色のカーテンの生地は薄く、向かいの一軒家のモルタルの壁が見えた。壁は、エアコンの室外機が大半を占める私の部屋のベランダから、手を伸ばせば届きそうなくらいすぐ近くにあった。陽射しが差し込むのは、朝のこの三十分ほどに限られている。その向こうのマンションや空が見渡せるモルタルの切れ目には、すだれのような遮蔽幕がかけられており、逆光が当たる朝には、その奥にある背の高いゴールドクレストや西洋ツツジが風に枝を震わせ二階のベランダに干した洗濯物が揺れるさまが見えた。アパートと一軒家を隔てるコンクリートの壁の向こうに張られた緑色のネットは、銀色のポールにしだを絡ませ、堆積した落ち葉の重みで天井がへこんでいる。このアパートに越してきてから二年になるのにゴルフクラブの快音を一度も聴いたことがない。だが、もしかしたら気のせいかもしれない。私にしたところで、十五平米に満たないこの一室で、するべきことも定まらずにスケジュールの空白に身をゆだねるようになってから、初めて向かいの家をまじまじと見たのだ。だから、正確には二週間、あのゴルフネットは使われなかったといえるにすぎない。