(その百二十一)ようちゃん

 ぺたぺたというような軽い靴音がうしろから走ってきて、だれかが肩を叩いた。ふりむくとやっぱり、ようちゃんだった。彼女はいつも、きゃしゃな足によく似合う、やわらかい革の横で留める靴をはいていて、あまり足をあげないで走るから、こんな音になる。ようちゃんだなって靴の音でわかったよ。そういうと彼女はうれしそうな顔をして笑った。笑うと、両の頬にふたつ、きゅっとえくぼがへこむ。
 この本、カトリックの人は読んではいけないことになってるらしいんだけど。まるでなんでもない通行人のせりふみたいに、彼女はそういいながら、肩が触れるほど近くまで寄ってきて、小さな本を私の目のまえにさしだした。ジッドの『狭き門』だった。叔父たちの本箱にあるのを見たことはあったけでど、おとなの本にさわってはいけないといわれていたから、私は読んでいなかった。もういちど、なんでもないように、彼女は、肩に掛けていた非常食用の乾パンや空襲で怪我をしたときのための三角巾などを入れた私の〈救急袋〉に、角の丸くなった岩波文庫をつっこみながら、つづけた。協会はどう思うのかしらないけれど、これはこれで、なかなかいい本だと思うよ。


須賀敦子ユルスナールの靴』河出文庫