(その五十一)裏切り

 わたしが裏切り者を讃美し、彼らを愛するのは、たぶん彼らに見られる倫理的孤独――わたしはこれを自分にも熱望しているのだが――によるのではないかと思う。この孤独への嗜好こそわたしの自恃の表徴であり、自恃はわたしの力の顕示であり、その使用目的であり、さらにその証拠であるからだ。事実、わたしはこの世で最も堅い絆さえ破り棄てただろう、――愛の絆でさえも。そして、わたしはどれほどの愛を必要とすることだろう、それを破壊するに足る力をそれ自身から汲みとるのだから……。わたしが初めて自分の盗みの被害者の悲嘆を目撃した(少なくともわたしの知るかぎり)のは軍隊にいたときだった。兵隊から盗み取ることはとりもなおさず裏切ることだった。なぜなら、わたしは、わたしをその兵隊に結びつけていた愛の絆を切り捨てたのだから。
 プローストネールは、美貌で、いい体格で、心から他人を信頼していた。この男が自分の寝台の上にのぼって、その十五分ほど前にわたしが盗んだ百フラン札を見つけようとして、彼の梱包の中身を何度も引っくり返していた。彼の動作は道化役者のしぐさそのものだった。彼は思い違いをしたと考えては、次々と世にも風変りな蔵い場所を想定していった、――彼がいましがたそこから食べたばかりの飯盒、次にブラシ入れ、今度は油の缶……。それは哀れにも滑稽な姿だった。彼は自分で自分に言っていた。
「おれはこのとおり正気なんだ。とすると、あそこへでも入れたのかな?」
 彼は、頭がヘンになったのではないかどうか少し怪しくなりながら、そこをさがすと、何も出てこない。この歴然たる事実にもかかわらず、彼はなんとか希望を持つために、百フランを断念し、寝台の上に横たわるのだが、すぐに起きあがって、前に見た場所をもう一度さがす。逞しい筋肉の上にどっかりとあぐらをかいた、この男の健全な人間としての確信が寸断、粉砕され、その男らしい確乎とした稜角がとれて、それまでに見せたことのないボヤけた男となっていた。わたしはこの無言裡の変貌を見守っていた。そしてなに食わぬ顔をしていた。しかし、この自信に満ちた若い兵隊が、彼の禍を惹き起こした悪意に気づかないまま――彼としては、この悪意が初めて、しかも、よりによって彼をその被害者に選んで実行に移ろうとは思いもよらなかっただろう――、それに対して示した無知と、恐怖と、ほとんど感嘆でさえあった反応、それに、自分自身を恥じている様子などがあまりにも哀れだったので、わたしは危うく同情のあまり、盗んだ後で幾重にもたたんで物干場に近い兵舎の壁の割れ目に匿しておいた百フラン札を彼に返す気持を起しかけた。が、盗まれた男の面というものは、見苦しい代物なのだ。盗まれた人間の顔を周囲に見出すとき、泥棒はある不遜な孤独を感じるのである。わたしは突慳貪に、
「なんだい、その不景気な面は。まるで下痢っ腹でもかかえているみてえだぞ。便所に行って、流してこい」と言うことができた。
 この経験が、わたしを自分自身から解放したのだった。
 わたしは不思議な爽やかさを経験した。ある自由の感覚によって心が晴ればれとなり、寝床に横たわっていたわたしの肉体はとほうもない軽快さを獲得した。これが裏切りというものなのか? そのとき、わたしは人なつっこいわたしの性格からそれまで自然にそれに身を任せていた、僚友への不潔な友誼と荒々しく訣別したのだが、その結果意外にも自分の裡に非常な力が湧くのを感じた。わたしは、軍隊と絶縁し、友情の絆を断ち切ったのである。


ジャン・ジュネ泥棒日記朝吹三吉訳 新潮社 昭和四三年九月三〇日発行(新潮文庫版) 六二〜六四頁