(その百九)パイロット

「ハイ」
 その人は顔を上げて、最初にギターを、そして次にミルクマンを見た。
「それはどういう言葉だい?」その人の声は快活だったが、しかし棘が含まれていた。ミルクマンは巧みにオレンジの皮をむいているその人の指をじっと見つめていた。ギターはにやっと笑って肩をすくめた。「こんにちはという意味だよ」
「だったら、そういうふうに言うんだね」
「わかった。こんにちは」
「そのほうがいいよ。何の用だい?」
「別に。ただ通りかかっただけなんだ」
「そこに立って、見てるみたいだけどね」
「ここにいて欲しくなかったら、パイロットさん、ぼくら帰るよ」ギターが穏やかに言った。
「わたしはああして欲しい、こうして欲しいというような人間じゃないよ。あんたのほうこそ何か用があるんだろ」
「ちょっとおばさんに聞きたいことがあるんだ」ギターは無頓着を装うのをやめた。その人はあまりにも単刀直入だった。そしてその人と太刀打ちできるためには、ギターは自分の使う言葉に用心深く注意しなければならなかった。
「言ってごらん」
「おばさんにはへそがないって言う人がいるんだ」
「それが質問かい?」
「うん」
「質問という感じじゃないね。答えみたいに聞こえるよ。質問をしておくれ」
「おばさんは?」
「わたしがどうしたい?」
「おばさんはへそがあるの?」
「ないよ」
「どうしたの?」
「わからないね」その人はむき終わった明るい色の皮を膝に落とし、オレンジの一片をゆっくりと引きはがした。
「今度はわたしが質問してもいいかい?」
「いいとも」
「あんたのその小さな友達はだれだい?」
「これはミルクマンだよ」
「その子は口を利くのかい?」パイロットはオレンジの一片を吞み込んだ。
「ああ、利くよ」ギターはパイロットから眼を離さず、肘でミルクマンを突いた。
 ミルクマンは息を吸い込み、そのまま抑えて、「ハイ」と言った。
 パイロットは笑い出した。「あんたはきっと世界一の大ばか者なんだね。一体学校では何を教えてるんだろうね? “ハイ”と言ったら、相手はきっと立ち上がって、あんたたちをぶちのめすよ」
 ミルクマンは恥ずかしさでいっぱいになっていた。恥ずかしくなるだろうということは予想していた。しかし、こういう種類の恥ずかしさではなかった。確かに、困惑するだろうとは予想していた。しかし、こんなふうにとは思っていなかった。この人は醜く、不潔で、貧しく、酔っぱらいであるはずの人だった。六年生の同級生たちがミルクマンをからかう種にしている風変りな叔母、その醜さ、不潔さ、そしてブドウ酒には、自分に個人的な責任があるような気がして、ミルクマンはその叔母を憎んでいた。
 ところが逆にその叔母のほうが自分の学校、自分の教師たち、そして自分をからかっているのだった。そしてこの人はみんなが言っている通りに貧しく見えたけれども、この人の眼にはそのことを確証するような何かが欠けていた。それにこの人は不潔でもなかった。確かにだらしはなかったが、しかし不潔ではなかった。この人の指の白い部分は象牙のようであった。そしてミルクマンがまったくの無知であるのでないかぎり、この人は明らかに酔ってはいなかった。もちろんこの人はおよそ美しいという柄ではなかった。しかしミルクマンには一日じゅうこの人を見ていても、飽きないだろうことはわかっていた。皮をむいたオレンジから糸のような筋の取っている指、顔をまるで化粧しているように見せているブルーベリーのように黒い唇、イヤリング……そしてその人が立ちあがると、ミルクマンはほとんど息が止まりそうだった。この人はミルクマンの父親と同じように長身で、ミルクマンはその肩までも届かなかった。着ている服はミルクマンが思っていたほど長くはなかった。服はちょうどふくらはぎの下までで、今やミルクマンはこの人のはいている紐のない男物の靴と、銀のように光る足首の褐色の皮膚を見ることができた。
 その人はオレンジのむいた皮を、膝に落ちたときのままの状態でかかえていて、上り段を昇るときはまるで、股を押さえているような格好だった。
「あんたのパパには気に入らないだろうね。あの人はばかな人間が好きじゃないから」それからその人は片手でむいた皮を押さえ、もう一方の手でドアのノブを握りながら、まっすぐにミルクマンを見た。「わたしはあんたのパパを知ってるんだよ。あんたのこともね」
 もう一度ギターが口を利いた。「おばさんはこいつのパパの妹なの?」
「たった一人の妹さ。デッドで生き残っている者は二人しかいないんだよ」
 愚かにも、「ハイ」と言ってしまったあと、一言も口から出せないでいたミルクマンは、気がついてみると、「ぼくはデッドだ。お母さんもデッドだ。姉さんたちもだ。おばさんとパパだけじゃないぞ!」と叫んでいた。
 叫びながらもミルクマンは、どうして急に自分がそんなにも自分の名前を守ろうとするのか、そんなにもその名前に執着するのか不思議だった。ずっと前からミルクマンはその名前が、その名前のすべてが大嫌いだった。そしてギターと友達になるまでは、自分のあだ名をも憎んでいた。しかしギターの口で言われるとそのあだ名は、利口そうな、大人っぽい感じがするのだった。今やミルクマンはこの奇妙な女性にたいして、その名前を持つことひじょうに個人的な誇りであるかのように、まるでこの女性が、自分が所属しているだけではなく、独占権を持っている特別なグループから、自分を追い出そうとしたかのように振舞っているのだった。
 叫んでしまった後、胸をどきどきさせながら沈黙していると、パイロットが笑いながら言った。
「二人とも半熟卵が欲しいかい?」
 少年たちは顔を見合わせた。パイロットは二人にたいして調子を変えたのだ。二人は卵は欲しくなかったが、パイロットとは一緒にいたかった。このイヤリングを一つ吊し、へそが無く、高くて黒い木みたいに見える婦人の、ワイン・ハウスに入ってみたかった。
「いいえ、結構です。でも水が一杯飲みたいんだ」ギターはパイロットに微笑を返した。
「じゃ、中にお入り」パイロットは開け、二人はパイロットの後から何もないようでいながら、そのくせ散らかっているように見える、大きな陽当りのよい部屋に入っていった。苔のような緑色をした袋が天井からさがっていた。ろうそくを突っ込んだびんがあちらこちらに置いてあった。新聞の記事や雑誌から切り抜いた写真がピンで壁に止めてあった。けれども揺り椅子が一つ、背中のまっすぐな椅子が二つ、大きなテーブルが一つ、それに流しとストーヴがあるほかは、家具はまったくなかった。すべてのものにしみ込んでいるのは松と、発酵しているぶどうの匂いであった。
「ひとつ食べてみるといいよ。わたしはどうすればちょうどよくできるか知ってるんだよ。白身が固まっていないのは厭だよね。黄身は柔らかいのがいいけど、あんまりとろとろでも困るし。濡れたびろうどみたいなのがいいんだ。どう、一つ食べてみないかい?」

トニ・モリスン『ソロモンの歌』金田眞澄訳 早川書房 一九九四年九月一五日発行 四三〜四六頁 Song of Solomon,Toni Morrison 1977