(その百十七)光晴

 ちくちくする芝生に背中をつけた姿勢でのけぞると、逆さまになった林の先端だけが見えた。杉や小楢が自生する林は体育館と墓地に挟まれていて、忘れられたようにいくつかの遊具があった。鳥の糞だらけのバンガローや車輪が錆びてうまく滑らないロープウェイ、枯れ葉がつもったネットや朽ちた丸太など、手持ち無沙汰の家族連れ以外見向きもしない遊具が並ぶあの林に、ハンガーをぶら下げた鴉がいることを最初に教えてくれたのは光晴だった。小さな頭の鴉が小首を傾げるたびに、くちばしのハンガーがぶらぶらと揺れた。クリーニング屋がワイシャツにつけるピンク色の針金を折り曲げた、どこにでもあるハンガーだったが、あの鴉はフックが鼻先で揺れるのをさも愛おしんでいるようだった。飛び立っても落ちないハンガーを不審に感じた光晴が言うところによると、ピンクのハンガーはコレクションのほんの一部にすぎず、バーベキュー小屋のずっと奥にある梅の樹には、数十本の色とりどりのハンガーが、木の実のようにからまっているという。実際鴉はよくピクニックに来る人間の食べ物を奪っていったから、嗜好品のひとつとしてハンガーを収集しないでもないとは思ったが、この話はいささか眉唾物だった。なにしろ、ハンガーの樹を見たものは光晴しかいなかったし、そんなにたくさんのハンガーが盗まれたという話も聞いたこともなかったからだ。それでもぼくは光晴に面白い話をまた聞きたいと思って寝返りを打った。
 光晴は上下する胸を起こしてショートパンツの紐を結んでいた。メッシュの生地がずり下がり、汗ばむ肌がのぞいた。ぼくはその青白さに思わず眼をそらした。
 となりで悠太がうめき声を上げた。プロレスでよく見る受け身のようなかっこうでばたばたと芝生のうえをはい回った悠太は、光晴の太腿に頭を乗せ、健太の肩に腕を回し、ぼくのお腹に脚をかけた。ひとりのくすぐったさは、くつくつ腹を揺すぶる笑いとともに伝染した。枯れ枝がぽきんと折れる音を血液が沸騰する耳鳴りの合間に聞いたぼくは、緩い傾斜になった芝生を転がり落ちると、そのまましばらく動かなかった。こんなとき、ぼくはいつでも死んだまねをしたくなる。 
「このまえよ、電柱よりも電柱の影のほうが濃い闇のなかでよ、球場の近くを歩いでだんだ」と光晴が話を始めた。「したらへ、鳥みでんた声がきゅうっとするんだ。だれもいね球場からよ。あれえ、なんだ? はじめは空耳かもしれねえと思って闇をかきわけていくとよ、もう耳がそれを覚えでらがらよ、またきゅうっと声がしたときにわかんだ。声がこっちに近づいてきてらって」
「それなんの鳥よ」
「なんも聞けねんだ。叫ぶんた音だけだ。羽ばたく音もしね、もみくちゃになる音もしね、砂蹴るんた音もしね。なんも聞けね闇のなかから、全部で三べんばかし、きゅうって」
「どんどん近づいてくんのが」とぼくは聞いた。
 光晴はびっくりしてこっちを見た。それから重々しそうに、「んだ」と言った。語尾がかすれて鼻息に交じった。ぼくは四つん這いのまま三人ににじり寄ると、肘のさきの刺草にしがみついた蟋蟀が後ろ脚で跳びはねた。
「本当に鳥だったのが?」と健太は心配そうに聞いた。まるで得体の知れない声の主がまだ近くに潜んでいて、ぼくたちの息をうかがっているみたいな身構えようだった。ぼくはその様子におかしくなりながらも話に引きこまれた。
 光晴が重々しく首肯くと、つんつんした前髪の影が顔のうえで揺れた。
 ぼくたちは、光晴がまたすぐ話し始めるんじゃないかと思って耳を澄ました。いつも話が途中で終わったのに気がつかなかったのは、光晴の声があたりの空気を振動させて、突拍子もない話のつづきをこの世界に呼び寄せてしまうんじゃないかと危ぶまれたからだ。回路はすぐ近くでつながっていた。話に引きこまれたぼくたちは、しばらくうしろをふり返ることができなかったほどだ。光晴の天性の話し上手は、彼の兄によって引き立てられることはあっても、損なわれることはなかった。ぼくたちが順兄と呼ぶ光晴の兄はふたつ上の五年生で、下級生に勝負事をもちかけては小銭を稼ぐ、さもしい吝嗇家として通っていた。順兄の姿が見えるたびに、急いで道の反対側に移らなければならなかったが、それで安全という保障はなかった。しょっちゅう罵声や竹竿が飛んできたからだ。そのために、弟の光晴は、あれだけ慕っていた兄を嫌っているふりをしなければいけなかったが、効き目がなくなったとわかると別の手段に訴えるようになった。マジックの種に百円玉をせしめられたり、奇抜な配色の靴紐を売りつけられたりした同級生の批難がそれとなく伝えられるたびに、光晴は重々しく口を開いた。竹組の栗林が突然白髪になった理由――道祖神と山の神の馴れ初め――図書室の本の欠落したページの行方――知恵遅れの伊藤が一本松に埋めた宝物一覧――放課後に校門のまえでパンフレットを配る宣教師たちの秘密の食卓――。そうして口にされる話どれもこれもはまったく見当はずれだったために、かえって効果はてきめんだった。恨めしげだった顔はぽかんと口を開け、性急な苦情は待ち遠しさに埋め尽くされた。
 そんなわけで、兄の悪行が弟まで飛び火するのを防いだのは、間違いなく光晴の話術のおかげだった。ほとんどの話は光晴が実際に経験した話だったし、ぼくたちがその場に居合わせたときの話もあった。膝を抱えて光晴の年寄りくさい話し声に耳を傾けていると、すぐに現実を忘れてしまった。どこまでがぼくたちも見た出来事で、どこからが光晴だけが見た出来事なのか、もはや判然と区別することはできなかった。光晴がしゃべった事実とぼくたちが経験した事実が食い違うこともしばしばあったが、黙って耳を傾けた。鼻穴が三つあるおじさんの話もそうだ。いまではもうはっきりとはわからない。おじさんがマスクをしていたこと以外は。ウインドブレーカーには点々と染みが浮かび、かろうじてプレスされた折り目のわかるパンツは、膝がぬけて裾がすり切れていたし、脂で黄ばんだ歯をほじくる指先は、ところどころひび割れていた。話の接ぎ穂に相づちを求めると、おでこのしわの窪みで真っ黒いいぼがうごめいた。ぼくははっきりと覚えている。あまりに不釣り合いな、顔を覆ったマスクの衛生的な白さを。それだけははっきりと覚えているのだが、果たして本当なのだろうか、毛羽立ってすらいないきれいなマスクがゆっくりとはがされたというのは――三つに空いた鼻の穴を見たというのは――みんなと同じようにふたつしかない鼻穴を見て落胆したというのは――いつまでもマスクを取ろうとしなかったというのは――酒焼けしたしわがれ声だったというのは――町で見かけたこともないそんなおじさんがいたというのは――いくつかの光景はこんなにはっきり見えるのに、もう覚えてはいない――そもそもその場にぼくがいたのかどうか――確かめようがあるというのだろうか――光晴自身がその場にいたのかどうか。静止した映像がちかちかと浮かび、それっきりだった。光晴はあの年寄りじみた声で意地悪くこう言うに違いない――俺すっただ話した覚えねえ、と。光晴は同じ話をしたがらなかった。